【時代を変えたロックサムライ 新宿ロフトを生んだ男・平野悠】

 キャンディーズが『春一番』、ピンク・レディーが『ペッパー警部』、イルカが『なごり雪』をヒットさせた1976年、平野悠は新宿・小滝橋通りに「新宿ロフト」をオープンする。

 300人収容可能な地下のホールには当時日本では最大のスピーカーをアメリカから輸入し、大きな話題になった。意表をつくように設置された潜水艦の上で『勝手にシンドバッド』を歌うサザンオールスターズ。その姿が『ザ・ベストテン』で生中継され、サザン人気が沸騰した。

 「俺は新宿ロフトで始まった人だからね。あの地下のステージに立った日々のことは忘れない」とは暴威、いやBOOWYで一世風靡した氷室京介。それ以後20年、テクノ・ポップ、パンク、ハードコア、メタル、ビジュアル…と音楽のスタイルは変わっても、プロをめざす新人バンドの登竜門、聖地と呼ばれるようになる。駅からの道はロフト詣での人であふれ、周囲には城を取り巻くようにレコード店、ロック雑貨店が林立していく。

 しかし平野の表情はすぐれなかった。これまで大学ノート1冊に書きなぐっていた金銭収支はそれでは済まなくなり、有限会社を作って専門のスタッフを雇うだけでなく、各店舗の出演者のブッキング、機材チェックの専任選び…と休む暇なく働きまくる日々。

 次の目標は若者たちの夢がかなうように、プロダクションをつくり、大手レコード会社に働きかけ、デビューさせてやろう。そう思ったが、大手プロダクションやレコード会社は、これはと思う新人タレントを次々と引き抜いていった。

 加えて大手が日清パワーステーションや渋谷ライブインなど、1000人単位の大型ライブスペースを作っていく。さらに渋谷の「屋根裏」や新宿の「ルイード」といったライバルとの競争も激化。出演者も音響をこうしろ、照明はどうしろと昨日までの態度を一変して注文をつけだした。

 バブル期を迎えた頃、巷にあふれていたのはメッセージ性のかけらもない歌ばかり。マネーゲームと化した音楽界への平野の失望は深かった。

 新宿ロフト立ち上げにかかった膨大な借金の返済を終えた84年9月、平野は腹心の部下を集め、宣言する。

 「俺の役目は終わったよ。ロフトを解散する」(室矢憲治)

6/6(木) 16:56配信
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