天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠

同一人物説論者が根拠とするものには以下のようなものがある。

日光に明智平と呼ばれる区域があり、天海がそう名付けたという伝承がある。
徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
明智光秀と天海は地蔵菩薩を信奉していたこと。それぞれの地蔵菩薩像は京の廬山寺、江戸の正徳院に奉納され現存している。
天海の墓所が、明智光秀の居城があった近江坂本にあること。