【野球】ロッテ 高沢秀昭 山内監督&落合の“直伝”で打撃覚醒した88年首位打者 .284 95本 399打点 107盗塁 932安打
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1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。
時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
高沢秀昭 山内監督&落合の“直伝”で打撃覚醒した88年首位打者/プロ野球1980年代の名選手
ロッテ・高沢秀昭
「手が遅い」打撃から……
「数字は大したことないんだけど、要所要所で顔を出していますよね」
こう振り返るのは、1980年代、特に後半の低迷するロッテを、バランスの良い攻守走で支え続けた高沢秀昭だ。
本人が「大したことない」と語る記録でも球史に名を残しているが、それ以上に「要所要所」の活躍でファンの記憶に深く刻み込まれている。
「山あり、谷あり。いろいろなことがあったので、いま振り返ると、長かったなぁ、と思う。(現役生活)13年の割には、17、18年やったくらい内容は詰まっている」
北海道の苫小牧工高からドラフト2位で80年にロッテ入団。いきなり「谷」に転がり落ちる。キャンプで腰を痛めると、2年目の自主トレでは右肩も痛めた。
一軍では1年目に1試合、2年目には10試合に出場したが、二軍でも試合出場は少なく、2年目のシーズン途中に外野手へ転向する。
打撃も伸び悩んだ。言われ続けたのは「手が遅い」ということ。速球に始動を合わせて、変化球が来たら、
「ちょっと止まって、スイングを始める」
ことを理想と考え、これは最後まで変わらなかったが、当時はバットが出てくるのが遅れ、内角や速球に詰まらされてしまっていた。
ただ、当時のロッテには卓越した打撃理論を持つ2人の男がいた。
1人は、現役時代は“打撃の職人”と評され、打撃に関する熱心すぎる指導で(やめられない、止まらない)“かっぱえびせん”とも言われた山内一弘監督。もう1人は、82年に史上最年少で三冠王に輝く落合博満だ。
山内監督からは「グリップを前に出せばいい」と言われ、そんな山内監督の指導には「放っておいてください」と言い放った落合は、
「右のヒジをヘソの前に持ってくる感覚」と極意を伝授。腕から先に動き、左足が着地する前にグリップを出して、そこから体を回すように対応すると、徐々に結果が出始める。
3年目の82年にはプロ初安打、初本塁打。翌83年には62試合の出場ながら6本塁打、打率.303を記録して、レギュラーの座を確保した。
続く84年は97試合に出場した時点で11本塁打、打率.317と打撃好調。だが、その97試合目、8月11日の西武戦(札幌円山)での外野守備で、
左中間への大飛球を背走して好捕したものの、その直後、フェンスに激突、右ヒザ骨折で全治6カ月の重傷を負ってしまう。
そのまま札幌に残って手術を受け、2カ月の入院。「山」へ登り始めた矢先に、若手時代よりも深い「谷」へと転がり落ちていった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190424-00000009-baseballo-base
4/24(水) 16:01配信
https://www.youtube.com/watch?v=s3yuOABoiOA
マリーンズ ピンク 1992 高沢秀昭
https://www.youtube.com/watch?v=u-eWc55S_JQ
[広島東洋カープ]#10高沢秀昭 応援歌
https://cdn.img-conv.gamerch.com/img.gamerch.com/mobapro2/wikidb_img/20170515172659_7877.png
http://img.topics.smt.news.goo.ne.jp/picture/baseballonline/m_baseballonline-097-20190424-11.jpg
https://blog-imgs-43.fc2.com/r/a/n/ranzankeikoku/201304051615465d5.png
https://scontent-amt2-1.cdninstagram.com/vp/665ae9d9a39288d0d5a942778de63001/5D48117B/t51.2885-15/sh0.08/e35/s640x640/15337111_1640516502912502_7408214116197728256_n.jpg
http://npb.jp/bis/players/81783861.html
成績 88年“10.19”で近鉄の夢を打ち砕く
長いリハビリを経て、85年に一軍復帰。28日の日本ハム戦(後楽園)で復帰後の初本塁打を放ち、二塁を回った頃には涙が止まらず。
この試合で勝利投手となった村田兆治も右ヒジ手術から完全復活を遂げたばかりだったが、お立ち台で「今日は高沢に話を聞いてやれ」と語り、さらに感激したという。
骨折の影響で、しっかり右足に体重を乗せて打つことが次第にできなくなったが、左右に体を揺らして右足に体重が乗ってから球を見て打ちにいくようにして克服した。
ハイライトは復帰4年後の88年だ。リーグ最多の158安打を放ち、打率.327で阪急の松永浩美をしのいで首位打者に輝いたが、ロッテは最下位に沈む。
そしてシーズン最終戦が本拠地の川崎球場に近鉄を迎え撃つダブルヘッダー“10.19”だ。
敗れれば近鉄の優勝が決まる第2試合、1点ビハインドの8回裏一死から同点のソロ本塁打。
そのまま試合は延長10回、引き分けに終わる。日本中のファンが見守る大一番で、最下位のチームから近鉄の夢を打ち砕く意地の本塁打だった。
89年オフに高橋慶彦ら3人とのトレードで水上善雄とともに広島へ移籍。
守備固めや代打がメーンとなるが、金田正一監督に請われて91年5月に金銭トレードでロッテへ復帰した。翌92年オフに現役を引退するまで、
「(野球を)楽しいと思ったことはなかった」
と振り返る。日々、数字や結果の出る世界で困難と戦い、自分の打撃を模索し続けた男だ。 〉右のヒジをヘソの前に持ってくる感覚
〉左右に体を揺らして右足に体重が乗ってから球を見て打ちにいく
もうまったくわからん 野球に対して嫌悪感抱かせるためにスレタイに生涯成績入れるというやり方 山あり谷ありは、山も辛いことで使う人いるよね。正解はどっちだろ。 ロッテは何故か首位打者を量産する
落合
高澤
西村
平井
福浦
西岡
角中 松永敬遠しまくったのは平井の時だけど記憶がごちゃ混ぜになってネガティブイメージがあった >>15
山内監督と落合の打撃理論のおかげなんだろうか?
しかし、落合は中日監督時代に首位打者を育成していないのだな
(福留は落合が育てる前に首位打者取ってる) 地味な首位打者だったな
広島にトレードされてから急激劣化した
出されていなければ1000本は間違いなかっただろう 愛甲の著書で 入団した時の相部屋が高沢で
影響(いい意味で)受けたようなこと言ってたような気がする 暗黒時代ロッテは1、3番タイプのこの人が4番打っていたな .284で首位打者獲れたとはラッキーとしか言いようがないな >>12
山あり谷ありなら山は栄誉
どちらも苦しいという意味で使ってるならそいつの語彙が間違っているだけの話 高沢、バークレオ、長野
カープファンが熱狂的に大歓迎したがぱっとしなかった3人衆 >>18
本人の努力の賜物だね
愛甲猛曰くハーモニカが趣味の物静かな男
だったそうだ >>19
広島に馴染めなくてノイローゼになったらしい
見かねたかねやんがカープに譲渡を持ちかけた >>34
高橋慶彦も衰えていたしあのトレードは無駄だったな >>29
絶対違うわ 笑
山がいいとか谷が悪いとか、両方悪いとか、そういう意味じゃないだろ 高沢って、1000本も売ってないのか。首位打者で通算安打一番少ないのって誰で何本くらいなんだろ >>35
完全におまけ扱いだった白武佳久だけが得した
トレードだった ニコ生だかで愛甲さんが現役の時から無駄遣いしないでコツコツと堅実に貯金していたと言ってたのはこの高沢さんだったかなぁ。 >>38
太平洋クラブライオンズの吉岡悟じゃね?
(戦前、戦中を除く) >>32
ルナ
と言いたいが優勝呼びこんだしまあいいか >>17
高沢が首位打者のときも
松永を敬遠しまくった >>31
ちなみにNPB通算打率ランキングには名が載っていない(通算打数4000に届いてないから) >>41
ありがとう。名前も知らない人だった。
>>17
今気になって見てきたら平井も1000本行ってないのな。松永は1000本未満首位打者に二回も阻まれたのか >>24
ロッテの四番はサブロータイプが多い
今は角中やで
普通レアードやろ 高沢はいい選手だった
慶彦とのトレードは結果大失敗だったがどっちも練習の虫だけに上手く転がればお互いにメリットのあるトレードになっただろうな ファミスタで
なぜかデモ画面でだけ出てくるOチームの4番だったっけ? なんだよその転校して不登校になっちゃった子みたいなエピソード 高沢と西村?ってのがイメージかぶる
右左で違うけど 高畠コーチは?
西村と高沢はこの人なくては語れない 水上さんが引退したら何の仕事もなくて魚市場で荷運びしてたって言ってたけど
この人とかは大丈夫だったのかな
いい選手でもとにかく地味だったよね、当時のロッテは パリーグから広島に移籍してダメになる選手大杉
成功したのは江夏くらい? >>58
水上
巨人の選手ならズームインのキャスターやれてたな >>58
水上は最後にダイエーにいたね
ロッテは有藤 落合 リーがいなくなってから国産大砲で苦労したね
古川とか岡部とか4番だった記憶 ロッテ1985
1西村
2横田
3リー
4落合
5山本
6有藤
7高沢
8袴田
9水上 >>63
あの時のダイエーは趣味でコレクションしてるかのように選手をかき集めてたな なお山内と落合は水と油だった。
(後年落合側が和解) レオンの息子は 大成したけど リーの息子はパッとしなかった 日本人の血が混ざると身体能力が落ちるな >>32
長野 Out
加藤英 In
>>34
広島ってトレードで加入したよそ者に冷たいしな
たとえ東京出身でも生え抜きなら冷遇しないが >>65
田淵がチームをガタガタにしたし
星野中日と浩二広島との間で友情トレードとかいう訳わからんことやってたのが大きいと思う 北海道の後輩・大村巌(現・ロッテ一軍打撃コーチ)みたく日本ハムのコーチもやって欲しかった。 >>23
実直な男だよ!
野球選手にしては、珍しく倹約家だし。
むしれあの時代に周りに染まらなかったのが不思議なくらい ロッテ伝統の首位打者とった年以外は大したことない選手か ダブルヘッダーで本塁打打ったばかりに日本中から悪者扱いされたけど、プロとしてするべきことをしただけなんだよ 仰木彬などという誰なんだお前なやつが 一気に名監督になってしまったもんな 今で言うと平石が 名監督になるようなもんだ >>65
根本呼ぶまでは、カネとヤル気はあったけど
方向性が定まらず空回り >>80
今のオリみてーなもんか、
やる気は知らんが金あるからFAでゴミばっか取る >>77
仰木さんは西鉄黄金期のレギュラー二塁手。
当時のエース、三塁手、遊撃手に比べれば地味だけど。 >>77
「江夏の21球」の時の三塁コーチ
近鉄とは長い付き合いの、叩き上げ監督 >>65
大物ってリッチ・ゴセージくらいでしょ
田淵お漏らし事件の影響もあってかトレードには
古巣阪神しか応じてくれなかったし >>83
ホントに大したことない選手だったけど当時の西鉄
にしては息の長い選手だった
豊田泰光をサンケイに売り払ってマイナーリーガー
を3人かき集めて優勝した1963年にも生き残り僅差
の2位に滑り込んだ1967年を最後に引退
大したことないから年俸もそこまで上がらず西鉄に
しては息の長い選手になれたんだろうな 仰木監督は記憶力が低かったという記事を当時読んだよ。試合中に何があったのか、覚えていないと。
それ聞いてから(数少ない中継を)見ていたら、メモ帳に書き付けている姿があった。自分の欠点を
補おうとする姿勢は、悪くない。
当時からちゃんと見ていた人には、正論で突っ込んでほしい部分だが、俺が思う仰木監督の優れた部分とは、
後に言うところの「モチベーター」なんじゃないかと思う。
そういう監督が、最近は増えてきたよね。 >>64
なんだか豪華だな。当時は西武の黄金期か?
最強西武に一泡吹かせる実力者だらけに見える。 >>35
高橋慶彦は、ロッテが欲しいというより、広島が放出したかったからだからなぁ >>77
最初から選手としての能力は度外視で
【将来の首脳陣・監督候補生】としてのドラフト指名だった平石をナメ過ぎ
(平石のドラフト指名順位とその後の経歴を見れば馬鹿でも解る)
ニワカにも程がある 野村の本に「仰木はオールスターに一度しか出ていない二流で、
オールスターの意義がわからず、イチローを登板させる暴挙を犯した。
それを断らないイチローも大概だ」
とか仰木を徹底して上から目線でバカにしていたw >>91
上田利治も監督コーチか、マツダの正社員としても使えると期待されてプロ入り >>64
一応二位だからな
西武の投手陣がズバ抜けてたから
15ゲーム差 >>93
アレはバッターをなめくさった采配だと俺も思ったぞ。 >>93
完全に仰木イチローに食われたオールスターだったから嫉妬でしょ >>96
森のもつ記憶力が仰木にはない。
監督のしての優劣はまた別だけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています