第91回選抜高校野球大会(センバツ)が3月23日に開幕した。

おなじみの坊主姿に球児らしさを求めたり、エース投手が強豪相手にひとりで投げ抜く様が称賛されたりする反面、連投による故障リスクや、坊主を嫌がる子どもの野球離れなどが懸念されている。

慶應義塾高校は、そんな高校野球のイメージを覆す存在だ。

2018年の春の選抜・夏の甲子園と立て続けに出場を果たした際、出場校の中では珍しく、選手の頭髪が坊主ではなかった。当時の夏の県大会決勝でエースピッチャーが自らの意思で別のピッチャーにマウンドを託し、甲子園の切符を手にするなど、選手の自主性を重んじた野球を貫いている。


森林貴彦監督は「大人が、高校野球のイメージや青春ストーリーを勝手につくり上げて、その時の選手たちをはめ込んでいる」と、高校野球が抱える問題の背景を指摘する。

新潟高野連が球数制限導入を目指したことをきっかけに、高野連も重い腰を上げた。高校野球が選手ファーストに変わるには、何が必要なのか。

坊主文化は、旧態依然の象徴
ほとんどの学校が坊主であるのは、高校野球界が遅れていて、旧態依然だと言われるひとつの象徴だと思います。

しかも、明文化されていないのに「何となくみんなしなきゃいけない」という同調圧力や横並びの意識、そして前例踏襲などから、ずっと温存されてきたのではないでしょうか。

そのチームや選手たちが考えた結果「坊主がいい」ならもちろん構わないし、指導者もいろいろ考えた上での判断であればまだいい。そうではなく、「今までそう」「高校野球は坊主」というだけの理由なら、改善すべきだと思います。

大人や見る側の人が「高校野球はこうあるべき」というイメージや、「坊主で全力疾走」「勝っても、負けても涙」といった青春ストーリーを勝手につくり上げて、継承していく。選手たちがるいそれにはめ込まれていると感じます。

選手だけでなく、指導者や周りにいる大人、みんなで変わっていく必要があると思います。

坊主が嫌だから野球をやらない子もいる
野球に関わる人は、野球が日本スポーツを背負ってきて、メジャースポーツだという自負があります。今でも、高校野球やプロ野球は、観客動員数を見ればとても大きな存在です。

それで、野球界はこれまでも今も成功しているからこのままでいい、といった考えがどうしても拭えない。今これだけ問題が出てきて、他のスポーツやスポーツ以外の世界から「このままじゃまずい」と思われている。もちろん危機感を持って動いている人はいますが、中の人はまだその意識が薄い人が多い気がします。

それこそ、戦前や戦中、戦後すぐのいわゆる昔の体育会系。監督の言うことは聞き、体を鍛え、チームのために働く「努力、忍耐、我慢」という価値観を、野球界はずっと引きずってしまっています。

今はそういう時代じゃなくて、世の中に出たらどれだけ個で勝負できるか、一人ひとりのアイデアが重視されます。AIも出てきて、人間にしかできない仕事を見つけていかなければなりません。

野球界、高校野球が時代に取り残されて、それが今野球をする子が減っていることにかなり影響しています。坊主が嫌だから野球をやらない子もいますよね。

慶応義塾高校の場合は、古い資料を見ると、やはり戦中や戦後すぐも、坊主ではなかったと聞いています。明確な理由や背景は分からないですけど、世の中の流れに流されるのではなくて、立ち止まって自分たちで考える校風があるので、その現れのひとつじゃないでしょうか。

甲子園は昨年100回大会が終わって「高校野球200年構想」を出してますが、このまま野球人口がどんどん落ち込んでいったら、200年は迎えられなくなってしまいます。

全文掲載

2019年03月23日 09時26分
https://m.huffingtonpost.jp/entry/keio-baseball_jp_5c948ba2e4b0a6329e14e8a7