【野球】池田親興 “猛虎フィーバー”に沸いた85年の開幕投手/プロ野球1980年代の名選手 53勝69敗30S 4.58
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2/16(土) 11:05配信 週刊ベースボールONLINE
1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。
激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
ニュータイプのプロ野球選手
プロ野球選手に限らず、めっきり近年は見かけなくなったが、1980年代のプロ野球界では、まだまだパンチパーマの全盛期だった。
80年代の中盤から巷で流行しているファッションがプロ野球界でも見られるようになっていき、80年代の後半には、のちに“新人類”と呼ばれる若者たちがパンチパーマ勢を圧倒。
90年代にもなると、まるで絶滅危惧種のように、パンチパーマは一部の選手によるトレードマークとして生き残るのみとなっていった。
“19歳トリオ”や“トレンディー・エース”らの活躍で、まずはパ・リーグを中心に、こうした“若者文化”は広がっていったが、そんな若者たちの“先輩格”といえるのが、セ・リーグの阪神にいた池田親興。
“19歳トリオ”とはプロ入りは同期だが、法大を経ての入団で、年齢は4つ上だった。“新人類”という言葉が、まだ流行していない84年。“ニュータイプのプロ野球選手”と言われた。
「長い髪は、うっとうしかったけど(笑)、パンチパーマが主流という当時の選手の格好が気に入らず、変わらないかな、と思っていました。周囲の声への反発もありましたね」
巷では一般的でも、閉ざされた世界では異端児。生き残るには、確固たる実力も必要だ。“ニュータイプ”は1年目の活躍で“猛虎の若きエース”と呼ばれるようになっていく。
宮崎の高鍋高では控え投手で、のちに84年5月11日の巨人戦(甲子園)で定岡正二からプロ初安打を本塁打で飾っているが、打撃が得意だったこともあって、3年生でも「四番・一塁」。
投手としては控えが続く。その秋に阪神からドラフト4位で指名されるも拒否。法大でも控え投手だったが、社会人の日産自動車へ進んだことで、投手としての才能に花を咲かせる。
東芝の補強選手として都市対抗の優勝に貢献。あらためて阪神からドラフト2位で指名されて、84年に入団した。
即戦力となって1年目から9勝。翌85年は開幕投手を任され、前半戦こそ精彩を欠いたが、後半戦はフル回転で最終的には2年連続9勝。
打線の爆発ばかりが脚光を浴びがちな猛虎フィーバーだが、そんな阪神にあって、先発の軸として優勝へ突き進んでいくチームを支えた。
プロの原点は初登板となった84年の開幕戦、4月6日の巨人戦(後楽園)だった。
8回裏一死二、三塁のピンチで救援登板も、自分の意思と違うサインに首が振れず、中畑清に2点二塁打を浴びて、一死も奪えず降板。意思疎通の重要性と投手の責任を痛感する。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190216-00000007-baseballo-base
2/16(土) 11:05配信
https://hanshintigers.jp/home/tgob/player/tigers/img/p_t_18_ikeda.jpg
https://www.sanspo.com/baseball/images/20140113/tig14011305030008-p3.jpg
https://nipponbaseball.web.fc2.com/personal/pitcher/ikeda_chikafusa.html
成績
https://www.youtube.com/watch?v=khOpO9w9Di0
池田 阪神 日本シリーズでは第1戦を完封
迎えた85年はシーズン終盤の9月27日に2位の巨人と甲子園で激突、6安打1失点の完投勝利で巨人の追い上げをかわすと、前日からの連投となった10月10日のヤクルト戦(甲子園)でシーズン初完封。
西武との日本シリーズでも第1戦(西武)に先発して、完封で日本一への大きな白星をつかんだ。
内角へのストレートを軸に、外角への変化球を生かす投球スタイル。指が太く、手のひらが小さいこともあって、
「腕の振り方は決まっている。変化球は、ストレートを投げるときに人さし指にかかる圧を、どうほかの指にかかるよう変換するか」
と考えた。だが、その後は故障に苦しみ、阪神も低迷に沈んでいく中で、精彩を欠いていく。復活は91年。
故郷の九州に本拠地を移していたダイエーへ移籍して、当初は先発だったが、誤算が続いた救援陣をフォローすることを重ね、そのままクローザーに定着、プロ初セーブを含む13セーブをマークする。
「抑えは短距離走者。それに合うように体を変えていきました。当時は先駆けでしたが、インナーマッスルも鍛えていました」
95年にヤクルトで1年だけプレーして現役引退。プロでは即戦力となり、役割を変えながら印象に残る活躍を続けた右腕だが、才能は遅咲きだった。のちに振り返る。
「高校では、ただ真っすぐを投げていただけ。大学でフォームのことなどを考え始め、社会人で主力になろうと責任感が出て、やっとホントのピッチャーになった」 石原慎太郎とか勝谷誠彦みたいに目をチカチカさせる人だよな
それだけよく覚えてる 「現代の女子高生と同じ姿」と話題の1932年の少女たち、どの程度のレアケースだったのか?
http://www.yy.tscharland.com/entry/8.html あの打ちまくった85年でたった9勝かよ
他球団なら年間5勝も厳しいな ダイエー言ってよかったよなあ
癒着かなんか知らんがクソみたいな解説でも
ずっと使われてるもんなー
楽な人生羨ましいわ 19歳トリオって何のことかと思ったら
津野浩(日本ハム)渡辺久信(西武)、加藤伸一(南海)
ナマハゲしか知らんわ TNCの解説、1996年からやってるらしいね。
在福局って他に解説やってくれる元ホークス選手いないんだろうか。 >>8
ゲイルと虎ボルタがいたから
池田がエースだった感覚はない 結局池田は当時の西武完封したのがハイライトだろうな
ダイエー移籍決まって泣いてたけど今やすっかりホークスの人間に 阪神ファンの乱暴狼藉が露わになった頃やな。
ずっと阪神は弱いままでいる方がええな。 巨人 江川
広島 北別府
阪神 池田
大洋 遠藤
中日 小松
ヤクルト 尾花 >>8
どっちかってゲイルじゃねぇか
池田遠山とかはエースというには 高校四天王の工藤一彦
三協精機の伊藤
リッチーゲイル
メチャ頼りなーい四本柱 「現代の女子高生と同じ姿」と話題の1932年の少女たち、どの程度のレアケースだったのか?
https://t.co/y8ZkbGXn02 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b73a9cd27f0065c395082e3925dacf01)
池田>>>>>>>>>>>ゲイル>>>>>>>工藤≧伊藤
ファミスタに出たことにより知名度に圧倒的差が いいのが出てきたと思ったんだけどな
同時期に出た槇原と大分差がついたな >>12
あのドーピングがバレそうになって帰ったヤツな あの年のエースはゲイルだよな
先発で二桁勝ったの1人だけじゃなかったっけ?
本当に打線だけのチームだった
あとはリリーフの中西か こいつは福岡に行ったのが最高の成功だったな
しかし福岡って不思議やな、生え抜きでもなく地元と関係もない選手が引退後も重宝されとる
池田もやが今井雄太郎とか島田誠とか若菜嘉晴とかテレビでまくりやん >>14
当時のダイエー監督だった田淵の数少ない功績が阪神とのトレードで
大野と池田の獲得だった。当時の阪神監督は負広だったから尚更 >>35
自己レス
中田も12勝してたのか
中田がそんな活躍したイメージがないわ >>36
今井は夫人が佐賀の人だった
島田誠は福岡出身(中間)
若菜は元福岡ライオンズ(西鉄・太平洋クラブ・クラウン)OB ボールチェンジで審判から新しいボールもらう時に高校野球みたいに毎回お辞儀してたのが新鮮だった 池田だったか中西だったか
入団会見で目標とする選手を聞かれて困り果て
口籠った挙句工藤と伊藤の名を挙げた事を
月亭八方が漫談で盛んにネタにしてたのは 仲田幸司と並んで阪神暗黒期前半のダメなエースだな。
仲田幸司は間違って14勝したことあるけど。 阪神ダイエーヤクルト12年で53勝69敗30セーブ。
今の時代ならどれだけの成績を残せるんだろう? >>24
遠山は優勝の翌年の入団かな。
高卒ルーキーでいきなり8勝して「同学年の桑田より上」ともてはやされた。
優勝した年のルーキーだと、嶋田弟がノビのあるいいストレートを投げてて、
「将来のエース」と長く期待されてたが、結局、故障で伸びなかった記憶。 池田はダイエー時代もストッパーとして活躍したのは1年だけで、
翌年以降凄まじい勢いでダメになっていったな
大野も94年オフにダイエーを首
二人とも阪神時代の甘さがどこかで残っていた >>36
トレード入団で地元出身の秋山はまだしも
FAで入退団している工藤公康も生え抜きの雰囲気 >>54
悲願の初優勝時のエースでMVPだし
城島を身を削って育てたからな 池田家の子孫か?信長の乳兄弟に似たような名前の武将いたよな 池田「 日本一の前の年に引退した人が今したよね? 」
川藤「 ワシじゃーい! 」 平成元年やったかな?
池田が2日連続先発したときあった >>36
そら彼らは根本的に地元出身やからやろ
今井は本人がおもろいだけ リーグ優勝の胴上げ投手だっけ?
夜のヒットスタジオで中継延長してた記憶が 福岡の解説者はろくなのがいない
若菜がいつもあんな偉そうにしてるのはなんで? >>58
藤田平は19年阪神に在籍して引退の翌年に阪神21年ぶりの優勝 >>61
胴上げはクローザーの中西じゃなかったけ?
引き分けで優勝決定。 阪神時代はなかった事にしホークスの生え抜き面して福岡でプイプイしてたくせにw >>1
池田って阪神とダイエーに在籍してたの覚えているが
阪神→ダイエーだったのか >>66
和田は1985年から17年在籍で、二度目の優勝を見ることなく引退。 すんごい前に福岡ドームで見かけたので握手してもらったことがある
プロ野球ニュースでよく解説してたので「いつも見てます」と伝えたんだけど
後で調べたらその年のプロ野球ニュースには出演してなかったw >>8,>>24
ゲイル、中田良弘のWエース(ただし防御率は4点台)だね >>11
一回も二桁勝ったことがないしろくに実績がない
ダイエーとの(人数だけが)大型トレードでストッパー
としてちょっと結果を出したことで名前が残った感じ
だね
盗塁王大野久と比べると池田の方が世渡りが上手い
んだろうね >>8
横浜が優勝した時と同じく、
先発はたいしたことないがリリーフ陣が堅い印象 >>16
カトシンは息の長い投手だったろ
8勝6敗 防御率2.99(防御率7位)でカープを解雇される
という謎の球歴の持ち主(カープは防御率最下位) >>38
アレはトレード時の不義理への詫びみたいなもんだから
田豚は一年前から要求してたけど阪神のチーム事情も
あって一年遅れで実現となった >>76
それは完全に君の思い込み
エースの斎藤隆が防御率6位で三浦大輔が防御率10位
なのに
完投が極端に少ないのは権藤がアホなせい >>49
>>50
>>74
すまん、80年代のくくりで書いたんよ
遠山は85に居ないのは存じてるよ
まだ山本和之とかの方がエースイメージ
優勝時は抑えだけど >>39
中田は4〜5年越しに10数連勝とかして
ちょっと話題になってたよ >>66
池内も85年に長崎とのトレードで大洋行って
かわいそうだったわ >>84
それ日本記録だったはず
今も破られてないかどうかは知らんけど >>39
中田は中継ぎ要員で
何故か勝ち星が転がり込んできた >>84
たしか18連勝。
カムバック賞貰って、オールスターに出て、最後の最後で登板して滅多打ちされていたな。 昔は親総みたいな感じだったよな
新聞か雑誌で親恥って誤植を見た記憶がある この年のエースは頼りないが池田とゲイルの印象だけど、チーム唯一の二桁は中田か
中田の印象が薄いのは池田より目立たなかったからかな? プロ野球ニュースでダイエーヨイショばっかりで大っ嫌いだった 85年は安定感がなく9月頃先発はずされたん
だけど、すぐ巨人戦で完投したりして
よくわからんかった
日本シリーズも第1戦で完封したけど、
ホームの第5戦ではあっさり打たれて
早い回に降板してたな あの年だけは、誰が投げても試合に勝っていた
異常に打ちまくる覇気が全員に伝染してしょぼいPでも神がかっていった 池田は、82年以後は重役に尾張、遠江、三河三ヶ国の恩賞進呈に目が眩み、84年に討ち死にしている。勝入斎恒興である。 この頃は千葉テレビでサンテレビ中継を放送してくれてたからありがたかった
そのおかげで阪神ファンになったし バース31歳
掛布30歳か
一番のピークがきてたんだな >>99
前半で4、5点取られてもまぁハンディだなwぐらいの雰囲気あったのを、幼な心におぼえてるわ >>95
徳川家に仕えた本多一族がソフトバンク本多みたいなチョン顔ばかりだったらガッカリ… 引退後に1年だけスカウトをしただけで、コーチ経験はないんだな
まあ、この位のレベルの元選手だと、迂闊にコーチを引き受けると
その間に引退した選手に解説の席を取られてコーチを辞めた後が困るからな >>85
永尾みたいに行く先々で日本一になれた幸運者もいるわけだしな ルーキー年確か開幕から4連勝か5連勝したんじゃなかったかな
んで最終登板試合で勝ち投手の権利持って降板したら
山本和行が打たれちゃって二桁逃した 数年前まで審判やってた渡真利も一緒にダイエーへ来たな
ダイエーから移籍したのは西川やニャンコ藤本などいたが、誰も活躍しなかった 童顔にナウくてヤングな髪型がマッチしてなかったのは覚えてる ベースボールアルバムが2冊も出てたな。
阪神で2冊以上出たのは、掛布(3冊)、真弓(4冊)、岡田(2冊)の3人。
1冊だと小林繁がいるから、池田は岡田と同格で小林以上か。 1985年の阪神
最強の打線
至高の守備陣
優良な抑え
最悪の先発・中継ぎ
正直こんな印象だったわ 掛布 平田 北村 吉竹
守備はこの辺が鉄壁だった印象 >>87
中田は、何年か前のサンテレビの特番で
真弓にΓ(中田は)球速くないのに速球で三振取るんだよなぁ」
とか、呆れ気味に言われて、横の掛布がΓいや、そういう言い方は
不味いよ」と注意したものの、当の中田は、強く否定もせず
ニタニタ笑ってたな >>66
藤田平がいた為に、84年まではバースはベンチ要因だったり
不慣れな外野に回されたりと、不遇囲ってた
で、引退後一塁選任になり、出場機会も安定して
85年大爆発する。その他、真弓と岡田のコンバートや
便利屋扱いされてた中西をストッパーに抜擢など
吉田さんの打つ手打つ手すべて当たってたのが85年の阪神
まぁ、その一年で運使い果たした感があるが 85年の優勝はエースのいない優勝って言われてたな
それだけ凄い打線だった
報知新聞を愛読してた巨人ファンのオレが阪神ファンになりかけたくらいだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています