<「近代ハングルの父」、福沢諭吉の朝鮮独立支援から、「脱亜論」まで>

●当時、朝鮮は清(中国)の属国だった。
●諭吉は、朝鮮民族独立のために当時ほとんど使われていなかったハングル文字を復活させ、漢字ハングル混合文を考案

・諭吉は、自費で活字を作り、慶應の弟子(井上角五郎)に命じて、初めてハングル新聞を作った 
→ 朝鮮人の保守派から反発を買う

・諭吉は、自らが作った慶応義塾に、朝鮮人留学生60人を受け入れた(朝鮮では、西洋の学問が禁止されていた)

・諭吉は、金玉均(キム・オッキュン)を慶應で学ばせ、伊藤博文ら要人を紹介、人的、金銭的に独立運動を支援した
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●金玉均ら独立党の独立運動は失敗に終わる(甲申事変)

 →朝鮮政府は、清が拘束した金玉均を凌遅刑(生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑)に処した後、
bバラバラにした体を、朝鮮全土にさらした(胴体は川に捨てられ、首は京畿道竹山、片手及片足は慶尚道、他の手足は咸鏡道で晒された)

・慶應に受け入れた朝鮮人留学生は、学問をせず遊んでばかりか、喧嘩や盗みを繰り返し、慶應の金庫までも荒らした

・朝鮮政府は、独立党の他の党員も処刑し、党員の家族(老人、婦人、幼児まで)も残虐に処刑した

●諭吉、朝鮮とその背後の中国に対して失望する
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●『脱亜論』を発表する。