ついに鉄人がユニホームを脱ぐ――。サッカーのJ1横浜Mに所属する元日本代表DF中沢佑二(40)が現役引退を決意したことが7日までに複数の関係者の話でわかった。
近日中に正式発表される。J1通算593試合、日本代表として国際Aマッチ110試合に出場。
2度のW杯を経験し、代表主将も務めた。無給の練習生からトップ選手に成り上がった裏には、日本サッカー界を代表するビッグネームとの“壮絶バトル”があった。

現役生活20年。
無名の高校生から、プロ選手となり、日本代表の主将にまで駆け上がった男がついに引退を決めた。
関係者によると、昨年8月に痛めた左ヒザの影響もあり、ピッチを去る決意を固めたという。
すでにクラブ側にも意思を伝えており、近日中にも正式発表される予定だ。

埼玉・三郷工業技術高を卒業後、ブラジル留学を経てV川崎(現J2東京V)の練習生になった中沢は1999年に念願のプロ契約を勝ち取った。
そこから187センチの身長を駆使したヘディングを武器にレギュラーの座を勝ち取ると、U―23日本代表として2000年のシドニー五輪に出場。
A代表としても06年ドイツ、10年南アフリカW杯を戦った。独特なヘアスタイルから“ボンバーヘッド”の愛称で親しまれるとともに、Jリーグを代表する名選手として一時代を築いた。

そんな中沢のサッカー人生は常にバトルの連続だった。V川崎の練習生だったころ、
出場した紅白戦でマッチアップしたキング・カズことFW三浦知良にチャージすると大激怒されたうえで、髪の毛をわしづかみにされた。
当時、中沢は「あれくらいは普通のプレーですよ」と話していたが、無名選手が日本のエースに遠慮なく当たっていく姿勢はフロント陣からも高く評価され、後のプロ契約につながった。

日本代表ではジーコ監督が指揮した時代に当時の絶対的エースだったMF中田英寿と“衝突”した。
特にドイツW杯アジア予選では苦戦が続いたため、エースがチームの戦い方や方針などを巡って自己主張を繰り広げることは多かった。
チームメートが口を出せずにいる中、冷静に状況を見極めた上で「言うべきことはしっかりと言う」と意見するなど、
主将を務めたDF宮本恒靖とともにチームをまとめ上げた。

2010年南アフリカW杯に向けては、ブラジル出身のDF田中マルクス闘莉王への“ライバル心”をむき出しにした。
センターバックでコンビを組み、鉄壁の守備を誇った名パートナーで世界からも絶賛された。
しかし、当時、売り出し中の闘莉王は高い決定力が持ち味で「超攻撃型DF」として話題。取材時にはいつも多くのメディアが取り囲んだ。

そんな姿に中沢は「いつもメディアは闘莉王ばっかり…。代表ではオレの方がゴールを決めているって」とジェラシーを隠さなかった。
普段の練習でも打点の高いヘディングを見せるなど、いつも張り合った。
代表では自慢のボンバーヘッドでDF登録として史上最多の17ゴールを叩き出したのも“闘将”の存在があったからだろう。

ピッチ外では自分との闘いだった。
普段からストイックな姿勢で早寝早起き。食生活には気を配り、酒は飲まずに、揚げ物は衣を取り、甘いものには手をつけなかった。
「プロとして何事にも妥協したくない。今やれることを徹底してまでやらないと、みんなについていけないので」と、最後まで自らのスタイルを貫いた。

今後は、サッカー解説者や評論家として活動しながら、指導者の道を目指すとみられる。第2の人生でも選手時代のような“成り上がり”を実現するに違いない。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190109-00000007-tospoweb-socc
1/9(水) 11:02配信

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