【野球】レロン・リー&レオン・リー 史上最強の“兄弟助っ人”/プロ野球1980年代の名選手
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1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。
時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
兄弟で打率1、2位に並んだ80年
最強の助っ人”と称される外国人選手は少なくないが、“最強の兄弟助っ人”は間違いなく、この“リー・ブラザーズ”だろう。
父親はカリフォルニアでリー・カンパニーという建設会社を経営していた。兄がレロン・リーで、左打者。
弟のレオンは右打者で、それ以外は共通点が多い。ともに巧打と強打に勝負強さも兼ね備え、兄弟なだけに顔もソックリ。
ロッテ時代は背番号と打席の左右でしか見分けがつかないほどだった。
荒くれ者のトラブルメーカーも多い外国人選手にあって、明るいキャラクターの人格者というところも共通している。
ただ、ロッテひと筋の兄とは対照的に、弟はロッテから大洋、ヤクルトと3チームを渡り歩いた。趣味も同じラジコン作り。
休日には兄弟そろってラジコン飛行機を飛ばしていた。
ちなみに、6人きょうだいで、レオンの下にもミルトンという弟がいて、レロンは日本に連れてきたがっていたという。
また、よくレオンが球場に連れてきていた息子のデレクは、のちにカブスで首位打者に輝くなどメジャーで活躍。
やはり巧打と強打を兼ね備える一方で、父や叔父とは違って俊足堅守も武器にした万能選手だった。
“リー・ブラザーズ”としてのキャリアハイは1980年だ。兄がリーグ最多の175安打を放って打率.358で首位打者に輝くと、弟は兄を上回る自己最多の41本塁打、116打点、打率.340はリーグ2位。
アベック本塁打も10度を数え、10月3日の近鉄戦(藤井寺)では兄が3本塁打、弟が2本塁打で、兄弟ゲーム5本塁打という快挙もあった。オフには“リー・ブラザーズ”名義でレコードデビューを果たすなど、
この兄弟にとって、もっとも充実した1年だったかもしれない。
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2018年12月23日(日) 11:05
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http://npb.jp/bis/players/01003846.html
レオン 成績
http://npb.jp/bis/players/21023844.html
リー成績
https://www.youtube.com/watch?v=Cukh2EAcpeo&t=346s
大洋 レオン
https://www.youtube.com/watch?v=YSZ6BrObVhg
ヤクルト レオン 最初に来日したのは兄のレロンだ。76年秋、空港の搭乗口に大きなラジコン飛行機を抱えて姿を見せる。
出迎えたロッテの球団関係者が一抹の不安を覚えたとしても責められまい。さらには、キャンプの打撃練習を見た評論家、マスコミが総攻撃。
「パワーがなく、期待できない」というのが主な批判だった。互いに異なる文化と文化が出合うとき、ありがちな行き違いではある。
小さな行き違いは、やがて大きな衝突へと発展する火種でもある。だが、兄は腐らず、バットで衝突を回避した。
翌77年は、あわや助っ人として初の三冠王という活躍。
打率こそチームメートの有藤道世に届かなかったが、34本塁打、109打点の打撃2冠に輝いて、開幕前に批判したスポーツ紙は「リーさん、ごめんなさい」と誌面で謝罪(?)した。
実は前年までロッテにいたラフィーバーと親交があり、「日本の野球についての情報をもらっていたのが大きい」と振り返る。
8年には弟のレオンも入団して、兄弟そろい踏み。以降4年連続で2人とも打率3割を超えるなど猛威を振るった。
互いの存在がバロメーターに
兄弟でライバル心はなかったが、それぞれの活躍が、いい刺激となった。
兄弟そろって絶頂期となった80年だが、翌81年は兄弟そろって打率3割こそ維持したものの、本塁打が激減。
兄が33本塁打から19本塁打に減らして打率.302、弟が13本塁打で打率.301と数字の下げ方も似ていることからも、互いの存在がバロメーターのような機能を持っていたことが分かる。
だが、その翌82年は違った。
兄は故障が続いて初めて規定打席に届かず、バロメーターを失った弟は安定感を欠き、初めて打率3割を下回ってしまう。
オフに解雇されたのは、82試合で15本塁打、60打点、規定打席未満の打率.326という兄ではなく、22本塁打、78打点、打率.283ながら、わずか2試合の欠場と奮闘した弟のほうだった。
ロッテに残った兄の一方で、セ・リーグの大洋へ移籍した弟。似て非なる道を歩み始めた兄弟だったが、これが吉と出る。迎えた83年は、ともに復調。
兄が25本塁打を放ってリーグ4位の打率.317をマークすると、弟は打率.288ながら30本塁打、98打点と、長打力と勝負強さを取り戻した。 レロン・リー&レオン・リー【後編】史上最強の“兄弟助っ人”/プロ野球1980年代の名選手
兄は堅調、弟は波乱万丈
兄のレロン・リーがロッテに残って調子を取り戻した一方で、新天地の大洋で復活した弟のレオン・リーには空手に挑戦して呼吸法を打撃に応用するなどの試行錯誤もあった。
ロッテ時代、特に1980年代は兄や落合博満の後を打つことが多く、投手も勝負してきたが、大洋では四番打者がメーンとなり、四球も一気に増える。
さらに、兄と過ごすことが減った分、チームメートともコミュニケーションを取る機会も多くなり、一緒にカラオケへ行って日本の歌もいろいろ覚えたという。
のちにヤクルトでもプレーすることになるが、
「もっとも居心地がよかったのが大洋」
と振り返っている。
移籍1年目の83年は主砲としてチーム4年ぶりのAクラス進出に貢献。
翌84年には兄も経験したことがない全試合出場で、1試合を除いて四番打者を担った。
兄は31本塁打を放って、やはり4年ぶりの大台をクリアしたシーズンだが、弟は安定感を取り戻してリーグ6位の打率.321をマークしている。
続く85年、兄は本塁打こそ減らしたものの、リーグ3位の打率.328など、相変わらずの安定感を発揮。
弟には、やはり試練が待ち構えていた。
新たに就任した近藤貞雄監督が奇策を連発。まず、内野の“裏返しコンバート”で一塁から三塁へ転向させられる。
来日後はロッテ1年目の6試合だけしか経験のない三塁守備だったが、これはどうにかこなした。
問題は打順だ。自身の四番は変わらなかったが、その前にいるのが高木豊、加藤博一、屋鋪要の“スポーツカートリオ”(のち“スーパーカートリオ”として定着)。
軽快に塁間を駆け廻る韋駄天3人の存在が、四番打者に重くのしかかっていくことになる。
のちに加藤が振り返る。
「レオンが調子を落としててさ、打席に立つと俺たち(3人)が塁上でウロウロするから集中できないと近藤監督に言ったらしいんだよ。
そしたら『ウチは走るチームなんだから我慢しろ』って言われたんだって。
それを通訳の人から聞いたとき、この監督の下だったら、いくらでも走っていられると思ったよ」
高木も笑って振り返る。
「でも実際、俺ってチョロチョロしていたでしょう。逆の立場だったら嫌だったろうと思うよ。ジッとしとけ! って(笑)」
オフにレオンは解雇となった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181224-00000010-baseballo-base ともに87年がラストイヤーに
確かに、走者がいるときに限れば、前年の打率.323から打率.305と落としてはいた。
それでも、8月10日の広島戦(広島市民)ではゲーム10打点のセ・リーグ新記録を樹立。
併殺打が半減するなどの副産物もあり、打率.303、31本塁打、110打点と打撃3部門で大台をクリアするなど、主砲として問題のある数字には見えなかった。
翌86年は、ロッテで31本塁打、打率.331と堅調を続ける兄の一方で、弟は新天地のヤクルトへ。
それでも移籍1年目から全試合に出場して、わずかに100打点には届かなかったものの、34本塁打、打率.319と、さすがの数字を残した。
だが、続く87年にはホーナーが来日。
その世話役を球団から頼まれると、あからさまに見下してくる大物メジャーリーガーが強いストレスとなり、打率.300は残したものの22本塁打にとどまり、オフに解雇された。
一方の兄も首脳陣との確執が噂され、9本塁打、打率.272と急失速して退団。
ともに87年がラストイヤーとなった。
リーの通算打率.320は、メジャーから古巣のヤクルトに復帰した青木宣親が更新するまで、長く4000打数を超える打者のトップだった。
80年にパ・リーグの打率1、2位に兄弟で並んだが、外国人選手で規定打数に到達しての打率3割の回数でも、兄が9回で1位、弟が8回で2位と並んでいる。
兄は80年代後半、外国人選手たちに異郷の地で重要なアドバイスを送り、巨人のクロマティも「レロンは僕らのゴッドファーザー」と慕う。
弟は2003年シーズン途中からオリックスの監督となり、巧みな日本語でも話題となった。 >>1
♪Ree〜〜〜touch me please 愛甲が今まで知る中で一番チンコがデカいって言ってた 松沼兄弟は打たれると「今日は中やん(兄やんと弟やんの間の架空の人物)が投げてた」とか言ってたな 燃えプロだとホーナーは抑えるの大変だけどレオンは抑えれるよねヤクルト戦 リー兄弟ってナニがビールの大瓶くらいあるらしい
シャワー室で選手が言ってた 滅茶苦茶チンポがデカいんだよなこの二人wさすがに日本の女じゃ太刀打ちできないよ。 「絶対に盗まれない傘」が爆誕。ユーモアあふれる盗難防止シールが面白すぎる(画像)
http://www.co.htcisgood.com/20.html ダーダ、ダンダダダダ、ダーダーダー、ダーンダダンダダダダダーダーダー! 高木豊
チョロチョロして解説してんじゃーねーよ
黙って座ってけ
かよ どっちかの方恥ずかしい性犯罪で捕まってなかったっけ? >打率.300は残したものの22本塁打にとどまり、オフに解雇された。
この成績で解雇されるのか。 ものすごい成績・・・ 今だったら年俸どんだけになってたことか レーシッチ兄弟もいたな
弟のゲーリーはけっこう活躍したけど
兄はイマイチだった 顔は怖かったけど人格者だったな
マニエルやシピンとはえらい違いだた 勤勉の果ての栄光 レオン&デレク・リー親子 [プロ野球] All About
https://allabout.co.jp/gm/gc/212440/ まあお前らバスケに疎いから知らんだろうけど、今年渡邊雄太、来年八村塁がNBA入る。
ハワイでザイオン率いる最強怪物無敗軍団のデューク大を倒し、大会MVPを獲得した八村塁に至ってはドラフト指名確実と言われてる。
そして、NBAも大注目の田中力は高校から神童しか入れないNBAアカデミーに特別奨学生として入学。
さらにエリート街道走るテーブス海は、今年からあのジョーダンの出身校ノースカロライナ大でスタメン奪取。
シェーファーアヴィ幸樹に至っては、バスケを初めてまだ数年、サッカーで培った身体を活かしながら、名門ジャージアテック大で活躍。
bリーグ も着実に人気上がってるし、女子バスケは五輪でのメダル候補。2020年東京五輪には3on3が追加競技。世界的スターのレブロン、カリーの最強アメリカ来日。 パラリンピックでの車イスバスケは一番人気。
沖縄では、圧倒的人気の琉球キングスのホーム地でもあり日本初の1万人ビッグアリーナ完成、世界の猛者達が集結するバスケW杯2023年開催。
スラムダンクもバスケ人気再炎にあやかって、新装再編版発売で爆売れ。
もう若者に傲慢野球よりバスケの方が人気になってるよ >>1
レオンは「チャンスに弱い」という理由で解雇されてる
んだよね
実際には数字ほどの働きはしてなかったのかな? デレクはアメリカで活躍しすぎて、日本でプレーできなかったのは残念だ >>4
ああ
コイツが監督をやった後はチームがねちょねちょに
なる近藤貞雄に楯突いたから解雇されたのか >>8
刑務所に入ってないメル・ホールみたいなもん >>35
クラーク兄弟とか弟の方が成功するケースが多い
気もする
もっともヤクルトに在籍した兄貴は何で解雇される
のか分からない好成績だったが リーも日本語が出来たら指導者や解説者になれたんだけどね 久しぶりに有藤のお好み焼き屋行くか
ららぽーと店にいるかな? リー兄弟は契約交渉でもタッグを組んでやっかいだったので
ロッテは弟の方を斬ったんだよな。
落合の成長というのもあったけど。 ポジション被り無かったらバースとブーマー両獲りしとった阪神 >>64
バースが子供の病気看病で再来日できずクビになった時になんでレオンに
オファーを出さなかったんだろ?ジョーンズよりかは使えただろうに >>49
ちなみにお父さんの名前もレオン(レオンがレオンジュニアでお父さんがレオンシニア)らしい
参考
Baseball Sacramento - Spotlight-Leon_Lee_Jr
http://www.baseballsacramento.com/Spotlight-Leon_Lee_Jr.html レオンは健さんが出てたミスターベースボールにも出てたな
その中でも古株の黒人助っ人がホーナーみたいな現役バリバリのメジャーリーガーの世話役になる話あった
自身の経験を参考にしてもらったのかもな >>66
お父さんのお父さんもレオンでそのお父さんもまたレオンだったりして 兄弟で同時に在籍していた当時はまだ野球を見ていなかったので
ロッテのリーと大洋のレオンというイメージしかない。 兄弟のどっちか忘れたが、バースとテレビでブラックバス釣りしてた。 レオンがオリックスの監督辞めて帰国した翌年、チンコ出して捕まってた。 あぶさん読み返したい
南海ロッテ戦でめちゃくちゃ点数入ってラストに地震起きる話
最後にリー兄弟と塁審が揉めるラストシーンのやつ >>77
ケツじゃなかったっけ?
指導してる少年野球の子供達が悪ガキにイジメられてて、そいつらを追っ払って、
最後にこれでも喰らえってケツ見せしたら捕まった マッド・ディロンと、マッド・ディモンみたいなもんか
ミルトンはロッテのキャンプに参加したことがあるが、当時は外人二人制だったから
契約できなかった。 たしか、リーの息子も大リーガーで活躍してたな。
シカゴだったはず。
良い選手だった。 リー兄弟、有藤、落合、水上、高沢、山本功児、愛甲、西村の強力打線を持っていたのに
南海と最下位争いしていたチーム >>85
デレク・リー。
もうリタイアしたがメジャーのレギュラー級だった >>87
縁もゆかりもないのに監督になっちゃった山本一義
のせいでチームがバラバラに >>72
年齢からきた衰えと腰痛を患った所にさらに有藤からの冷遇で引退に追いやられた オリ監督時代に銀座で会った
俺が握手した全ての人の中で1番手が大きかった 80年代の助っ人外人って個性的な人が多くて今でも名前覚えてる人多いよな >>88
ああ、そうそう。デレク・リーだ。
ありがとん。 >>88
WBC第一回大会で上原からHR打ってたな 平成終わりだからこんな記事が増えるのかと思ったら昭和の話じゃねーか 弟のレオンは大洋のイメージだけど2〜3年しか居なかったのか何か意外だな >>41
兄貴はチャンスに強かった、弟は淡白な感じだった。あくまでイメージだから精査すると違ってるかもしれんが。 npbでは長子でホームラン王とったのレロン・リーだけって十何年前になんかで見たがまだそれ続いてんのかな
弟より優れた兄などいねーっ! ブルース・リーとかパメラ・アンダーソン・リーとか地中海フェ・リーとにかくリーブームだった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています