正力松太郎


経営難で不振の読売新聞を買い受けて社長に就任し、新聞界に転じた。
以後、政財界に影響力を拡大。

1940年(昭和15年)
開戦時は大政翼賛会総務であったためにA級戦犯の第三次戦犯指名となり、逮捕されたが、起訴はされず、
巣鴨プリズン収容者の1人となった。このためしばらく公職追放処分を受けた。


戦後は、MLB選手を日本に招聘して日米野球を興行するなど野球界で尽力したが、一方で

★★長期にわたるアメリカ中央情報局(CIA)への協力(非公式の工作活動)をおこなっていたことが、
アメリカで保管されている公文書により判明している。

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原発利権の
首謀者
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1955年(昭和30年)
1月 - 米国の新たな情報キャンペーン「平和のための原子力」プログラムを読売新聞のトップ記事で大々的に紹介し、
     放送やイベントを含む半年に渡る一大PR活動を開始

1956年(昭和31年)
1月 - 原子力委員会の初代委員長に就任。1月4日、日本に原子力発電所を5年後に建設する構想を発表。


自由民主党総裁の座も狙っており、

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          ★★渡邉恒雄★★を参謀の★中曽根康弘★との連絡役にしていた!

1959年(昭和34年)
6月 - 岸内閣改造では、大野伴睦と中曽根康弘氏の間を取り持ち、中曽根氏の初入閣に尽力。

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■中曾根康弘

1954年(昭和29年)
3月 - 当時、日本学術会議を飛び越して、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算」を国会に提出し成立させる。
    正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。

    2人で政界における日本の原子力政策推進。