【野球】遠藤一彦 江川をライバル視していた横浜大洋のエース/プロ野球1980年代の名選手 通算 460試合 134勝128敗58S 3.49
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1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。
時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。
遠藤一彦 江川をライバル視していた横浜大洋のエース/プロ野球1980年代の名選手
横浜大洋・遠藤一彦
「自分の投げる試合は必ず勝つ」
1980年代の大洋は暗黒期といえる。50年の2リーグ分立に始まる歴史で、もともと低迷の多いチームではあった。
50年代は6年連続で最下位に沈みっぱなしという時期もあったが、松竹との合併などもあって落ち着かなかったという言い訳もできる。
だが、安定の1リーグ6球団、全12球団制となって、かなりの時間が経った80年代となったら、勝率5割、Aクラスともに83年の1度だけ、というのは長くて暗いトンネル……
もとい、暗い海の底に沈んだまま浮かび上がってこないクジラのようなものだった。
投手陣は苦しかった。60年代から70年代にかけて、特にV9巨人と名勝負を繰り広げてきた平松政次はベテランの域に達し、通算200勝を花道に84年限りで現役引退。
77年に新人王となった斉藤明夫はクローザーとして適性を発揮した。
そんな投手陣にあって孤軍奮闘したのが遠藤一彦。大洋ホエールズが川崎から横浜へやってきて“横浜大洋ホエールズ”と名乗った78年に入団、
同時に採用された白地にマリンブルーのホーム用ユニフォームは、その長身に映えた。
横浜大洋は93年に“横浜ベイスターズ”へと改称することになるが、それまでの15年間、長身から繰り出す快速球と落差のあるフォークで、低迷を続けるチームを支え続ける。
1年目は二軍中心で経験を積む。翌年に新人王の権利を残す、という首脳陣の考えもあった。満を持して臨んだ2年目の79年は先発、救援と47試合にフル回転して12勝12敗8セーブ。
歴戦の平松政次らとともに2位躍進の原動力となったが、新人王は中日の藤沢公也に譲る。
だが、ライバルとして意識していたのは巨人の江川卓。同学年で、高校時代から“怪物”と呼ばれていた。
江川を目標として「いつか追い抜いてやる」という思いは、学生時代からあったという。
82年9月21日の巨人戦(横浜)。江川と投げ合い、ともに完投した試合は、1点差で大洋が勝利を収める。
「江川に投げ勝った」ことで自信を深め、さらなる飛躍へとつながる。
「自分が投げる試合は必ず勝つ」
そんな使命感とともに、マウンドに立った。実際、そうでなければチームに光は見えてこなかっただろう。
翌83年から18勝、17勝で2年連続の最多勝。鋭いフォークに打者のバットは次々と空を切り、奪三振もリーグトップだった。83年は沢村賞も獲得。名実ともに横浜大洋のエースへと成長した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180917-00000005-baseballo-base
9/17(月) 11:06配信
https://i0.wp.com/www.yakyuukozou.work/wp-content/uploads/2018/01/show_img-1.jpg
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0310/users/9/1/4/2/hakimu_gogogo-img1200x1200-1508768954ferapq20451.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=lOjpxWTBDI8
1983 遠藤一彦
https://www.youtube.com/watch?v=klW0Zg4_EKI
1985 遠藤一彦
http://npb.jp/bis/players/81183846.html
成績 そして横浜大洋とともに
5年連続で開幕投手を務め、6年連続2ケタ勝利にも到達した87年。
10月3日の巨人戦(後楽園)、5回表の攻撃で、走塁中に右足のアキレス腱を断裂してしまう。
選手生命の危機だった。6年連続の開幕投手を目指してすぐに復帰の計画を練ると、懸命のリハビリを始める。
開幕投手は譲ったものの、翌88年、本拠地開幕戦となる4月12日広島戦(横浜)に先発して戦列復帰。
しかし、同年5勝、続く89年は2勝に終わる。鮮やかな復活を遂げたのは90年。
80年以来、10年ぶりに抑え投手となると、すべて救援のマウンドで45試合に登板して21セーブを挙げ、チーム7年ぶりのAクラス入りに貢献、カムバック賞も贈られた。
そして92年10月7日巨人戦(横浜)が引退試合。このゲームは、“横浜大洋ホエールズ”最後の試合でもあった。
80年代のセ・リーグで、メジャーで通用する投手として、巨人のホワイトや87年に旋風を巻き起こしたホーナーらが、その名を挙げた。
巨人のクロマティは塁に出ると「頭の出来が違うんだよ」とばかりに自分の頭を指して相手を侮辱するパフォーマンスを繰り返していたが、
ピンチでクロマティを打席に迎えると、フォークと思わせて快速球で三振を奪って、同じポーズで“逆襲”したこともある。
もし、チームが横浜大洋でなければ、どれほどの成績を残していただろう、とも思う。選手として優勝の歓喜も味わえただろう。
だが、そんな横浜大洋のファンは、その存在に安堵し、期待し、声援や喝采を送った。 なんか凄いジャンプ力で、走り高跳び優勝してた記憶がある >>1
> 翌83年から18勝、17勝で2年連続の最多勝。
84年の大洋は最下位で46勝しかしてないのに、
遠藤は17勝もしたのか すげぇ 斎藤もなんだけど暗黒期を支えた選手なのに監督どころかコーチの能力もないのが悲しい 大体毎年巨人と広島2強4弱で
遠藤は相手が負けるの期待出来るピッチャーだったな >>11
広島から来た木庭スカウトの話なんか有名だろ >>9
大洋のチーム打率セリーグビリ
大洋のチーム得点セリーグダントツビリ
遠藤の防御率セリーグ11位
謎 スタイル良くて
直球も早いし球種も豊富だったイメージ 首位打者なったミヤーンやパチョレックもいたし
ポンセだっていたし弱小の戦力なんかじゃなかったよ 江川、遠藤、北別府、小松
80年代のセ各球団のエース
この4人はすぐに思いつくのだが
阪神とヤクルトはこれといった投手が思いつかない >>17
あれも、チームが全然打たないから自分でヒット打って本塁に帰ろうとしての全速力のランニングだった
あんときヒットなんか打たなきゃ、全速力のランニングしなきゃもっと活躍していた 江川が先に引退した時「早く引退できて(=他に仕事があって)うらやましい」とか言ってた気がする 遠藤がアキレス腱を切った試合と引退試合を観戦したよ >>24
9勝とか8勝が多かったからかな
ヤクルトは梶間、尾花
阪神は池田とか助っ人とか アキレス腱切った時の試合リアルタイムで観てたな
塁間の走塁で断裂して足を引きずりながら二塁に走ってたような >>24
何を言ってるんだ虎のエースと言えば右のエースが球界のマッチこと池田、左のエースはマイク仲田じゃないか セカンドの選手が帽子とって挨拶した瞬間現実を知ったあの頃 >>8
そんなことはない
先発も抑えもやったし
大遠藤さまやで >>26
モテるだろう
スタイル良くて格好良かった
稲妻フォーク好きだった 銀行員かエリート官僚のようなスマートな投手だった
RIP >>41
ってことは俺と同じ日に後楽園球場で観戦していたんだな
遠藤がヒットで出て、誰かのヒットの走塁中に急にケンケンして3塁で倒れこんで何事かと思ったわ >>58
ごめん、テレビ観戦w
巨人戦だったからテレビでやってた でもあのオレンジ/グリーンを超えるユニがいまだに出てこない >>8
全てにおいて遠藤の方が上
アキレス腱切らなければね >>60
そうかあ
遠藤から中継ぎで中山が出てきて打たれて逆転負けをしていたね
怪我がなければ勝てる展開だった
あの試合でヒットを打った片平晋作も昨年亡くなってしまった 大学時代に付き人だった後輩の辰徳には
空っきし甘かったな いつも滅多打ち 同時代セ・リーグエース
江川 遠藤 北別府 小松 尾花
甲乙つけがたいね
マジで阪神、生え抜きで誰おった?
中田良弘? >>11
田代はコーチとして有能なのかいろいろ渡り歩いてるな >>60
そう、確か中継でも遠藤の走塁を抜いていたから
結構衝撃的で記憶にやきついている クロマテも自著の中で遠藤はメジャーでもスターになれる、って書いてたよ 基本 滅多打ちの巨人戦で唯一対抗できる投手だったな
須藤監督になってようやく巨人に勝てるようになった
阪神に超絶弱い伝統は今年もだが >>74
中田良弘って阪神優勝の年だけ確変的に勝ってただけだったような あの時代の大洋一筋で134勝58Sは凄い
これで200敗近くしてるかと思ったら勝ち越してるんだから大したもんだ >>74
阪神は大体1年から2年くらいしか安定して活躍できない投手が多かった
だから外国人のピッチャーが多かったんだろう 江川よりも、80年代「本格派」の代名詞。
ドラフト候補や高校球児も「憧れの本格派」トップ 阪神難しいな
81〜83小林
84池田
85ゲイル・池田
86仲田
工藤一彦とか中田良弘って
中継ぎのイメージあるんだけどな自分
先発もしてたでしょうけど >>88
この時代の大洋は本当に弱かったからね
横浜大洋銀行とか呼ばれてた 巨人ファンのうちのじーちゃんの血圧を上げ続けた男こいつ打たれねーんだよ 第13回ドラフト
1977(昭和52)
1位 門田富昭
2位 加藤英美
3位 遠藤一彦
4位 大久保弘司
5位 谷内野隆
6位 屋鋪要
この人のライバルはむしろ同期でドラフト一位門田富昭だった
門田は西南学院大学時代「西の江川」と呼ばれていた
遠藤はプロ一年目は一軍1勝しかしてないが門田5勝している
当時マスコミなどで子連れルーキーとして騒がれた >>72
山本は80年中盤は抑え
80年前半は小林と2人で先発のエースだったね >>24
ヤクルトは尾花や高野光、一応荒木も
阪神は池田親興と仲田幸司だろう >>24
阪神は生え抜きじゃないけど、小林繁
ヤクルトは松岡
>>54
個人的には山本和行も推したい 川崎大洋ホエールズでもない横浜ベイスターズでもない横浜大洋ホエールズのユニフォームしか着なかった男
こういうのもまた格好いい >>24
ヤクルトは松岡がいるだろ。
ヤクルト一筋で191勝してるんだぞ。190敗してるけど。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています