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昔の旧陸軍でも田中義一(後に首相)ひとりが頑張っても、ほとんど効果は無かった。

岡崎久彦『重光・東郷とその時代』(PHP研究所) 単行本P.333-336
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ちなみに、イギリス人、オランダ人が、戦時中の日本人の残虐をいう場合、そのほとんどは
収容所の生活条件の劣悪さとビンタのことを指している。

生活条件の劣悪さは、戦時中の物資の窮乏のもとでは日本軍も似たりよったりの条件であったが、
欧米人にとっては、過去からの落差もあったろう。

ビンタは旧軍の習慣である。江戸時代以来の日本の伝統文化でも、平手で他人の頬を殴るのは
恐るべき侮辱的行為であったと思われるが、日本の軍隊では常習化していた。田中義一が自分の
連隊では禁止したというから、その前、明治のころからあった習慣であろう。通常の社会人を
軍隊生活に慣れさせるために、まずそのプライドを徹底的に奪うための手段であったと解される。
いま生きている日本人のなかにも、旧軍に対する怨恨を捨て難い人が多い主たる理由はビンタである。

それも激しく殴るのである。ある軍隊経験者はこう語っていた。「あんなものは二、三回打たれている
うちに頃合いを見て倒れれば相手は満足するのさ。要領の悪い奴はほんとうに叩きのめされるまで頑張っている」。

同じ日本人同士だから、こうもいえるが、それまで人種的優越感をもって有色人種を常習的に殴り蹴りして、
さらに平気で殴り殺してさえきた白人にとっては、有色人種からこういう扱いを受けることは、譬えようのない
屈辱であると同時に、いつ殴り殺されるかわからないという恐るべき心理的な迫害であったことは想像にあまりある。

戦時中の日本軍については、「残虐だ」というのが決った形容詞であり、それに「身の毛もよだつ」とか
「言語に絶する」という修飾語はついても、その実体が乏しいのは、こういうことだったからであろう。
たしかに「身の毛もよだつ」「言語に絶する」虐待であったのであろう。

じつは、ビンタへの反発は東南アジア人にとっても同じであった。タイ、ビルマでは、頭は神の宿るところとされ、
子供でもふざけて頭に触ってはいけない。まして、ビンタなどはしたほうがその晩に闇討ちで殺されても、
周囲が皆納得するような行為である。戦争末期の日本軍に対するビルマ軍の反乱の動機は、
日本軍のビルマ人に対する暴行だといわれている。ほとんどの場合は殴打のことであろう。

(中略)

ビルマの独立の志士で、一九四一年四月にビルマを脱出し、日本軍による軍事訓練を受けたのち
ビルマ独立義勇軍の幹部としてビルマ解放のために日本軍とともに進撃し、独立後は大臣も歴任している
ボ・ミンガウンは、『アウンサン将軍と三十人の志士』を著しているが、そのなかでも、日本に対する
怨みの記述で、開戦前に海南島で訓練を受けたときに遡って、仲間のリーダー格までがビンタを
浴びたことを特記している。

いわゆるBC級戦争裁判で罪を問われた者の大部分の罪状は、捕虜虐待、現地住民虐待である。
戦時中の物資欠乏のなかでの悪待遇はやむをえなかったとしても、ビンタがなければ、日本軍の
残虐の事実は、少数の犯罪的暴行者以外はほとんど出てこなかったのではないかと思う。

日本人としては通常自分がやられていることであり、それほどの罪の意識はなく、精神教育ぐらいの
つもりであり、もとより殺したり傷つけたりする気はまったくないのであるが、やられたほうにとっては
「いつか殺してやる」と思うくらいの屈辱である以上、戦争に負けたときの運命は予期さるべきものがあったのである。

ビンタの習慣は、数々の光栄ある日本の軍隊に汚点を残した。これは何世代も消えない傷であるかもしれない。

これを厳に禁止したのは、タイに駐留した中村明人中将である。タイの人は賢い。中村中将が
赴任早々、タイの人はビンタが日タイ関係の命取りとなる恐れを指摘し、中村はその忠告を受け入れた。
中村は、仏(ほとけ)の司令官としてタイ人に慕われ、敗戦後何年かしてから、国賓に準ずる待遇でタイ国に招待されている。

ビンタの問題に紙数を費やしたが、占領中の日本軍の残したイメージを振り返ってみてそれだけの価値はあると思う。