【野球】度胸満点!高卒ルーキー・工藤公康の“内角攻め”に南海・門田がバットを手に「おい、若造!」 西武ライオンズ40年
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【一番近くで見た 西武ライオンズ40年】
1978年オフ、西武が福岡を本拠地としていたクラウンライターライオンズを買収し、埼玉に「西武ライオンズ」が誕生してから今年で40周年。
リーグ優勝16回、日本一10回の栄光もさることながら、個性的で愉快な面々が球団史を紡いできた。
長年に渡り専属リポーター、コメンテーターを務め、表も裏も知り尽くす中川充四郎氏(67)が、取っておきの秘話を公開。
◇
広岡達朗監督1年目の1982年、ドラフト6位の高卒ルーキー・工藤公康は開幕1軍入りを果たした。
落差のある大きなカーブともう一つ、度胸の良さを買われていた。
当初は中継ぎで、ブルペンに向かうのは試合の中盤以降。それまではベンチで「ヤジ将軍」に徹した。
その屈託ない言動について本人に聞いてみたら、「グランド外では先輩・後輩でも、グランド内では同等でしょう?」。
マウンド上でも新人とは思えない度胸を発揮した。
ある日の大阪球場での試合中、当時南海(現ソフトバンク)の主砲で歴代3位の通算567本塁打をマークすることになる門田博光が、バットを手に三塁側の西武ベンチ裏へ乗り込んできた。
「おい、工藤とかいう若造! (体の)近くばかり投げよって!」とすごい剣幕だ。
元同僚で西武に移籍していた黒田正宏が仲裁に入り、なんとか事なきを得た。
強打者に対して内角を攻めるのは投手としては当たり前だが、「殴り込み」をかけられるほど徹底していたのだろう。
実力を認められていた証し、といえなくもない。
小学生で野球を始めたころ、父親の指導が厳しかったという。
「家の本棚に、スパルタ何とかという本がズラッと並んでましたから」。
制球をつけるため、キャッチボールを至近距離から始め、だんだん距離を伸ばし、ストライクにならないと最初の位置に戻る反復練習が、その後に役立ったそうだ。
ボールにスピンを効かせるために、寝転んで親指と人さし指でボールをはじき、天井まで届かせる練習も父親のアイデアだった。
工藤本人は天真爛漫だが、結婚後は夫人の内助の功が大きかった。
豪州優勝旅行中に教会で結婚式を挙げた際、立ち会った関係者のホテルの各部屋に挨拶状とワインが届けられていた。
絶対に工藤本人のアイデアではない、というのが受け取った側全員の感想だった。
その後も、世話になっているマスコミ各社、個人への届け物を欠かさない。できるようでなかなか難しいことだ。
94年オフ、FA権を行使してダイエー(現ソフトバンク)移籍を決めた直後、西武の新監督に兄貴分の東尾修が就任。
「もう少し早く東尾さんに決まっていたら、残りましたよ」と後日語っていた。
その後、巨人、横浜(現DeNA)を経由し、西武に復帰したのが2010年。当時の渡辺久信監督は2歳下。
投手交代の際、審判に「ピッチャー、工藤さん」と敬称をつけていたシーンがほほえましかった。(敬称略)
■中川充四郎(なかがわ・じゅうしろう) 1951年3月25日、埼玉県生まれ。67歳。
駒沢大卒業後、貿易商社勤務を経て、日本マクドナルド社に転職し都内4店舗の店長を務める
「文化放送ライオンズナイター」のリポーター募集に応募して採用され、82年から27シーズンに渡ってベンチリポーター、コメンテーターを務めた。
現在はフリーのコメンテーター、ライター。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180814-00000010-ykf-spo
8/14(火) 16:56配信
https://image.middle-edge.jp/medium/fc123fbc4b689416e0789175214ffab6.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/8acf9e8fb7e52d23c4be2a7171041107.jpg
https://www.youtube.com/watch?v=Psjkm6xFD4M
門田博光 月間16ホームラン!!
https://www.youtube.com/watch?v=aKFX1smL7pg
83オールスターゲーム 門田博光2HR >>99
80年代から90年代までムチャクチャ強かったから 子供の為に福岡には行けないと言ってオリックスに行きながら2年後に福岡のダイエーに移籍。
このくらい自分勝手出来るのが真のプロだわな。
どこのコーチや監督の声もかからんけどさ。 ルールに則って内角攻めをすると、
逆ギレ恫喝して次からは投げさせないようにして
セコく数字を稼いでいた張本、落合、門田
昔の大打者ってこんなんばっか 工藤どうでもよくて、門田てやっぱりちっちゃい人間だったんだなとしか思わない 一時期のテレ朝の門田、福本、大下剛なんかの辛気臭い解説陣は最悪だったなw >>88
アキレス腱のリハビリを兼ねての電車通勤だった >>1
西武が凄いのはプロ入り拒否を翻意させたことじゃなくて
コクドグループの資金力で熊谷組に横取りを納得させた
ことなんだよな
こんなことが出来るのは同時の西武だけだ >>32
地面に叩きつけたバットが跳ね返って小指に当たって骨折と記憶してた >>109
工藤が入団した後、熊谷組がコクド絡みで何本か工事を請け負ってるよね >>37
投手コーチの梶本隆夫だよ
西本幸雄監督の発案だったそうだけど >>46
東尾は顔なんて狙わないよ
ただし恫喝に従わない場合は(ry >>62
「うちのキーになる選手は工藤だ」って広岡監督が言ってたね 工藤は童顔だったが
潮崎も笑うと八重歯キラリで可愛かった >>88
元々大阪球場だから近鉄電車で一本
あと門田がオリックスに在籍したのは二年
だから本拠地は西宮球場だった 藤井、ブーマー、門田の時代があったな
アニマルが居たのも同時期だったかな >>119
アニマルはオリックスのユニフォーム着てないだろ
身売りの2年前に辞めてるのに 門田って身長170cmしかないから
若造の工藤は何だこのチビオヤジと思ってたらしい 門田って見た目はぬいぐるみみたいで可愛かったのに中身はかなりアレな人だったんだな
それで指導者にはなれなかったのか >>113
梶本さんてあの名球会で唯一負け越してる梶本さんか? 子供の頃、かっとばせキヨハラくんでしか知らなかったけど
テレビで本人を見たら割と漫画そのままで笑った 200勝した投手で最多勝を獲れなかったのは
工藤と梶本の2人だけ >>126
チームの勝ち負け何か考えたこと無い
ワシがホームラン打てばそれでェェてハッキリ言っちゃう人だからね
ワシの打撃はワシのもんで他人になんぞ教えられないとも言っちゃうしw
まぁ当時の南海に勝ち負けに本気になってた人間何人もいなかったろうけどw スピードガン以上にストレートが早くて重かった。
だからカーブだとわかっていても打者は打てなかった。
あれだけヤンチャだったのが自己管理の塊になって長く現役続けられたのは、夫人のおかげだな。 昭和の名選手なんてみんな一癖も二癖もあっておっかないの
ばかりでしょ。 >>2
それは内容によるな
ストラークゾーンに投げてるならともかく
大概は体の近くに投げてるから
腰から下ならまだ許されるが
頭の付近はマジで危険だから
それくらいはよけてよって感じの死球もあるけどね
(踏み込んできてあたる) >>105
落合が内角攻めに切れたのは
横浜の盛田くらいじゃね
落合は内角よけるのがすごくうまく
そもそも内角打ちの名人
(自信があるからホームベースギリギリに立った)
まあ晩年に内角攻めされて切れる落合を見て
落合も衰えたなって寂しくなったけどね >>42
広岡監督から「坊や」「坊っちゃん」て呼ばれて可愛がられたみたいね。
怒られてる所を見たことないと、
文句ばっかり言われていた石毛や東尾が言ってた。 そうそう、門田と工藤の対戦は多かったんだよね
工藤は最初の3年間はリリーフで3年目はアメリカ留学
広岡は普通は高卒の選手は二軍で鍛える方針なんだけど工藤は要領がいいっていうか
頭がいいんで、二軍だと手抜きをするだろうからって一軍に帯同させて
南海門田とか阪急加藤相手によくワンポイントと起用した。
キャッチャーの伊東は、1年目ブルペンで壁みたいにずっと受けさせられたが
代打では起用され日本ハム戦の終盤に江夏としょっちゅう対戦させられていた。 >>115
日ハムの工藤は、プレーオフに強行登板したんだっけ
阪神にも工藤がいた頃だな 内閣が打てないから投手を恫喝するのって、やっぱり昔からみんなやってたんだな コントロール悪い新人の内角球は危ないからな
掛布や落合なんかも死球が元で引退に追い込まれた プロらしいじゃん
脅しで怯んでくれるなら楽な話し
そこで更に突っ込んでコヤツやるのうで一人前扱いさ >>138
オリックスとの日本シリーズでなんてことない鈴木平の内角球に仰け反って避けたあげくすごい顔で睨み付けてたがな 「なんで働かないといけないんですか?」と聞いた学生への、とある経営者の回答。
https://t.co/Oebo3YoRm8 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:b73a9cd27f0065c395082e3925dacf01) >>118 学園前だから快速止まるし、門田の出勤時間なら人も少ないだろうし、楽なもんだよな。 >>2
すっぽ抜けてケガでもさせられたらめしくえなくなる 落合が「お互いプロで金もらってる以上、内角攻めもデッドボールも仕方ない。けど、頭に当てるのだけは勘弁してくれ。」
って言った相手は誰だっけ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています