【野球】石毛博史(元巨人)、ドラフト外の肖像#1――ドラフトで問題視、野球人生を左右させた伸びない肘 375試合 34勝29敗83S 3.44
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日本プロ野球では1965年にドラフト制度導入後も、ドラフト会議で指名されなかった選手を対象に
スカウトなどの球団関係者が対象選手と直接交渉して入団させる「ドラフト外入団」が認められていた。
本連載ではそんな「ドラフト外」でプロに入団した選手1人の野球人生をクローズアップする。
小学5年生ですでに120キロ
石毛博史は1970年7月、3人兄弟の二番目として生まれた。
野球を始めたのは、小学4年生のときだった。
「放課後、野球部が練習しているのを見ていたんです。そうしたら大人の人が近づいて来て、やりたいのって言われたんです。
それでやってみたいと答えました。後からその人が監督だということに気がつきました」
野球の世界では、練習や努力で手に入れられない二つの才能がある。飛び抜けて速い球を投げられること、そして打球を遠くに飛ばすことだ。石毛には前者の才能が備わっていた。
本城小学校野球クラブでは小学5年生から試合に出場。
小学校を卒業する頃には、軟式ボールで120キロほどの速球を投げる右腕投手として近隣で名前を知られる存在となっていた。
しかし、銚子第五中学に進んだ石毛は早々に躓いた。
「ぼくの中学には二つの小学校から一人ずつピッチャーが入って来る。そのピッチャー二人が毎日500球ぐらいバッティングピッチャーとして投げさせられるんです。
それがその中学の伝統だったみたいで」
中学1年生の夏になった頃だった。監督から「お前、肘伸びるか」と訊ねられた。石毛が右腕を動かしてみると、真っ直ぐに伸びない。
「野球肘でした。遊離軟骨が関節のどっかに挟まってしまって伸びなくなっていたんです。
痛みはあったんです。(遊離軟骨が)変なところに挟まってしまうと、動かせないぐらい痛くて、衣服のボタンもはめられない、髭剃りも出来ない」
野球肘は肘の外側で骨同士が摩擦を起こし、骨、軟骨が剥がれる症状である。また、肘の内側、後方で靱帯、腱、軟骨が損傷することもある。成長期の過剰な投げ込みで起きるとされている。
「(医師からは)手術を薦められましたが、当時は内視鏡手術がなかった。
(肘にメスを入れて)切ると野球選手生命が終わるというのが、子ども心ながらにあって、そのまま様子を見ることにしました。半年ぐらいはノースロー、投球禁止でした」
投球を再開したのは、中学2年生になってからだ。安静にしていたことが良かったのだろう、投げても痛みは出なかった。
石毛は右腕を出して、軽く動かした。
「今も肘が伸びないんです。ネズミが大きくて動けなかったんでしょう。そのまま(肘などの躯が)成長してしまったので、ずっと曲がったまま。
人から見ると異常なんでしょうけれど、自分の中では正常。曲がったまんまがぼくの正常なんです」
剥がれた軟骨――ネズミは肘のどこか、痛みの出ない場所に落ち着いた。関節部分に軟骨が挟まっているため、肘は伸びないが、日常生活、投球に支障はなかった。
この伸びない肘が彼の人生を左右することになる。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180814-00010001-baseballc-base
8/14(火) 8:04配信
https://www.youtube.com/watch?v=bBUU_m5dDig&t=10s
1992 石毛博史 5 150km超
https://www.youtube.com/watch?v=7G98eKBnpuc&t=13s
1995 石毛博史
https://i.ytimg.com/vi/QbJpINMKrL0/hqdefault.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/cfce0e33-6cb3-4c74-b44c-2cae28b9bbaa.jpg
http://npb.jp/bis/players/31633868.html
成績 >>350
長嶋が高卒2〜3年目くらいの條辺を酷使しまくったんだよな 槙原なんかさらに古い時代で155kmとか放ってたけど
スピードガンでてるころは打たれたな。
145kmくらいにおちついた時の槙原はちょっと打てなかった
スライダーは滑るし高めの真っ直ぐも空振りまくり。 石毛は出てきて初球とかは凄いボールなげて
相手バッターもびっくりしてるくらいだった。
でも抑えるとは限らない、かわいげのあるピッチャーだった。
アンチ巨人にとっては好感度は高いw >>354
元審判のひとが槇原は球もスタミナも素晴らしいのに考えが足りない、無能だとか書いていたな
批判というより歯がゆくて仕方ないという感じだった
逆に桑田は頭が良くて驚いたと。阪神の江夏が球が見えづらいように計算してロジンバックを置いていたけど
桑田はルーキーの時からそれをやっていたらしい ドカベンに出てくる石毛は
石毛博史がモデルとなっている こいつ出てきたら相手観客席から拍手されたってホントかよ >>329
1992年出始めの時は素晴らしかった
中盤以降抑えに定着したが、出てくれば「よし今日は勝ちだな!」と思えるストッパーだった
まさか後年相手から歓迎されるような抑えになるとは思わなかったw 1992年くらいだと、まだまだ抑えは今のような1イニング限定起用でもなかった
早ければ7回、8回とか8回途中あたりからピンチになったら出てきて火消しする本当の意味でのストッパー >>362
98年の佐々木とか1イニングしか投げないのにとか言って批判されてたな >>363
さすがに年俸5億とか貰いすぎって言われてたな
3点差の1イニングなら佐々木じゃなくても務まるとか
相手からすると、佐々木が出てきた時の諦めと絶望感って凄かったんだが 「1イニングなら毎日でも大丈夫」と言う佐々木と
たまには回跨ぎもしてほしいという投手コーチで対立してた覚えがある 記憶に残る選手だったよね
嫌いじゃないし変に親しみも感じる 1997、1998年くらいの佐々木が出てきた時の絶望感 いつも泣きそうな顔して投げてたな
ものすごくよく覚えてる >>363
98年の無敵状態の佐々木に負けを付けたのが阪神矢野
実は翌日の試合でも同じような試合展開で矢野にまわり権藤は内心で「これはまずい」と思ったらしい
矢野は嫌な打者だったと。結果はいい当たりだったが進藤のファインプレーでなんとかアウトに。
あそこで抜けていたら佐々木も精神的にやられていたかもしれないと権藤は語った >>347
古葉監督になってスカウトの能力が急上昇したんだよ
1987年で一気に投手陣が底上げされた
盛田幸妃、岡本透、野村弘樹、田辺学 >>323
澤井 良輔いたな 当時よくファッション雑誌にのってたわ >>365
権藤監督は何故か8回二死から投入してた >>348
解説者も「打ち崩すのは難しいですけど、立ってるだけでランナー2人くらいは出ますから」とか言ってたなw
確かに調子良くストライクゾーンに入る日は打たれる感じしなかった >>200
アーム式でダイナミックに見えただけやね >>344
自分が出た場面が条件だからセーブはつかないぞ >>367
今じゃ名捕手扱いだけど谷繁が佐々木のフォーク獲れないから佐々木出るたびに代えられてたな >>376
だから球が全部最初から丸見えだから
全然怖くなんだよね >>378
近藤昭仁監督が秋元宏作を重用するから恨んでたけど
佐々木主浩から直接「お前フォーク獲れないじゃん」と
言われたんで尻に火がついた >>371
福留と甲子園を沸かせたスラッガーだったんだけどな
浦和球場でよく連れションした >>359
みんな喜んでたよ。四球連発して最後は打たれてくれるイメージ。
抑えてた時の印象はない >>351
抑えでもランナーがいる状態で登板することあるだろw
ランナーいる場面で出てきたらそいつクローザーでないだろ
そもそも>>51みたいなケースはクローザーならありえない場面と言ってるのに マウンド上がって最初からセットポジションで投げなきゃいけない環境とか投手からすりゃ嫌だろうけどね >>385
それは今のクローザーな
90年代くらいまではクローザーでもイニングまたぎは当たり前
2イニング以上も普通に投げてた
散々このスレでも書かれてるだろ 西武の石毛きた!
…と思ったら、あまり知らない方の石毛だったw 石毛博史、ドラフト外の肖像#2 両親の薦める社会人野球を断って……ドラガイから巨人のストッパーへ
ドラフト会議当日に1本の電話
1988年11月24日、ホテルグランドパレスでドラフト会議が開かれた。
石毛は日本テレビ系の『ミユキ野球教室』という番組の密着取材を受けている。
「テレビカメラが教室に入って、授業を受けている様子とか全部撮ってました」
指名が入れば授業を受けている石毛に連絡が入ることになっていた。
ジャイアンツは津久井高校の川崎憲次郎を1位指名。
川崎にはヤクルトスワローズも指名しており、抽選となった。
スワローズが当たり籤を引き、ジャイアンツは『外れ1位』として北海道拓殖銀行の左腕、吉田修司を指名した。
続く2位で高知商業の右腕投手、岡幸俊を指名。
しかし、スワローズ、広島東洋カープ、ロッテ・オリオンズ、ダイエー・ホークスと競合。
くじ引きで、またもスワローズが交渉権を獲得した。
『外れ2位』として大阪ガスの右腕、松谷竜二郎を指名した。3位に金足農業高校の投手、佐川潔を選んでいる。
ここからジャイアンツは指名を野手に代えた。
4位で三菱自動車川崎の四條稔、5位で三菱自動車水島の前田隆、最後の6位に札幌第一高校の高梨芳昌を指名した。
この年のドラフト会議は6位まで。石毛の名前が呼ばれることはなかった。
指名されなかったことがわかったときは、教室でいたたまれない気持ちでしたか、と話を振ると石毛は「まあまあ、なんか」と口を濁した。
その日の夜のことだ。
「城之内さんから電話があって、6位までに掛けられなかったけど、ドラフト外ということで巨人に来ないかって」
石毛は即答せず「1週間ほど時間を頂けますか」と返事をした。
両親は住友金属への就職を薦めた。
「野球が終わってからでも生活が安定している住友金属に行って欲しい。
父親は、俺の子なんだから、そこまで出来るとは思っていないと。
社会人で3年間やって、それでももう一度ドラフトに掛けてくれるんだったら、行きなさい、みたいな感じでした。チャンスはもう一回あるよって」
しかし、石毛にとってプロ野球選手になることは子どもの頃からの夢だった。その夢に手が届くところまで来たのだ。3年後にドラフトで指名されるとは限らない。
「ドラフト外であっても好きな球団から指名が掛かった。できれば早くから環境の良いところで野球をやりたい」
電話で城之内に入団の意思を伝えると、スカウト部長を伴って銚子にやってきた。
「ドラフト3位の佐川とぼく、どっちを3位にするかということだったと説明を受けました。肘のこともあり3位には掛けられなかった。3位と同等の契約をしましょうと」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180815-00010001-baseballc-base リリーフとして才能開花、宮田コーチとの出会い
年が明けた89年、石毛は背番号「93」という大きな数字の背番号を背負って二軍キャンプに参加した。
ブルペンでプロの投手の投球を見たが、圧倒的な差を感じることはなかったという。
「感触的にはこの人たちには負けないと思いましたね。その自信は何なのかは分からないですけれどね」
しかし、1年目は二軍戦にさえ起用されなかった。
「それがチームの方針なんですね。1年目はバッティングピッチャーと(筋肉)トレーニング」
二軍のイースタンリーグの試合に帯同し、スコアブックを付けるのも大切な仕事だった。
「1年間やりましたね。いい球だけれど、ボール1個分、中に入った。それを待たれて打たれた、とか、そういう駆け引きを勉強していましたね」
ドラフト上位指名の選手のように一挙手一投足を追いかけられることもなく、石毛は幸福で充実した無名時代を過ごすことが出来たのだ。
プロ2年目、90年シーズンからイースタンリーグで先発起用されるようになった。
しかし、ここで石毛は右肘と向き合うことになる。
「1回から7回、8回まで全力で投げていました。そうすると、炎症が出て来る。痛みはないんですが、しっくりこない。思った通りの動きが出来ない」
しばらく休むと炎症は収まった。ただし、回復に時間が掛かるため、先発ローテーションを守ることは不可能だった。
そんな石毛に救いの手を差し伸べたのが、二軍のピッチングコーチだった宮田征典だった。
「宮田さんが『お前、絶対にリリーフの方が向いているから』って」
不思議であるが、短いイニングであれば、毎日投げても肘に炎症が出なかった。
「リリーフの英才教育というか、抑えとはこういうものだということを宮田さんから教えて頂きました」
宮田は1939年に群馬県前橋市で生まれた。前橋高校から日本大学を経て、62年にジャイアンツに入った。
監督の川上哲治により救援投手として起用され、ジャイアンツの九連覇時代の初期を支えた。
『8時半の男』という渾名は広く知られることになった。現在のクローザー、セットアッパーの走りである。
宮田は「感情を出すな」と教えた。
「リーグ戦なので、結果に一喜一憂していると相手に見られる。弱い部分を見透かされる。
だから鉄仮面のように、勝っても負けても同じ表情でマウンドから降りてこい。淡々と毎日投げることがリリーバーの仕事なんだって言われました」
89年シーズン終了後、救援を務めていた鹿取義隆と角三男が移籍したことも、宮田の頭にあっただろう。若く、連投の効く救援投手が必要とされていたのだ ストッパーなのに出てくると相手ファンが喜ぶ稀有な人w 嬉しくて仕方がなかった初登板
翌91年シーズン前、石毛は一軍キャンプに呼ばれている。背番号は「59」に代わった。
キャンプの後のオープン戦も無難に抑え、開幕を一軍で迎えることになった。
4月18日、ジャイアンツは東京ドームに大洋ホエールズを迎えた。
先発はジャイアンツが香田勲男、ホエールズが中山裕章で始まった。
香田の立ち上がりは良かった。3回まで無失点。
しかし、4回に走者を二人置いて本塁打を浴びて逆転された。さらに5回にも本塁打を浴びてマウンドを降りた。
そして6回から石毛がマウンドに上がることになった。
「負けていて、敗戦処理なんですけれど、初登板の場面を(監督だった)藤田(元司)さんが作ってくださった。
もうブルペンで震えちゃって、ブルペンからベンチ裏まで行くのに、結構距離があるんですよ。歩いて行く途中、どうしょう、どうしょうってなっていました」
ところが、ベンチからグラウンドに足を踏み入れた途端、すっと緊張が解けたのが自分でも分かった。
「うわーっ、こんなところで投げられるって、逆に楽しくなっちゃって。
ランナーズハイじゃないですけれど、緊張していたのが、振り切っちゃったんでしょうね。
(観客席の)声援も聞こえるし、顔も見える。不思議な感覚でしたね。負けているんだけれど、マウンドに立てることが嬉しくて仕方がなかった」
このシーズンは23試合に登板し、0勝1敗1セーブ、防御率3.03という記録だった。 石毛さん、プロで16年やれたのか
拓大紅稜の高橋や和田、市船の伏島なんかがプロ入りした世代だ、懐かしい
翌年は、成東の押尾、八千代松陰の度会、市船の大野
度会の息子が甲子園出てるんだもんな、時間経つのが怖いくらい早いわ >>394
話の筋を考えたらある程度なおるというレベルの話をしてるわけではないと想うよ リリーフのくせにピンチでテンパって顔真っ赤にする石毛西山は最高だったわ >>394
もともと低いレベルの人が努力である程度なおるという話なら球を速く投げる能力にも遠くに飛ばす能力にも言える 調子がいい時の石の様なストレートとスライダーのコンビネーションは素晴らしかったよ。
まぁノーコンだとばれてからそのストレートが振ってもらえなくなったんだけどw >>390
高校時代の酷使のせいでプロ入り後は長いイニング
が投げられなくなった板東英二みたいだな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています