――高橋先生はずっと日本代表の試合を見てきたと思うのですが、ワールドカップに出場できない時期が長く続きました。

高橋「パッと頭に浮かぶのは、あの木村和司さんの直接フリーキックですよね。メキシコワールドカップのアジア最終予選、ホームの韓国戦(1985年10月)。残念ながら負けてしまいましたけど、ワールドカップに近づいた瞬間でもありました」

――続くアウェー戦でも負けましたが、確かに「ワールドカップに出られるんじゃないか」という気運が高まりましたよね。

高橋「まあ当時から韓国は強かったですし、イランなど中東勢はフィジカルの部分で長けていたじゃないですか。ワールドカップはなかなか難しいなという感じでしたよね」

――日本代表のお気に入りはやはり10番、木村さん?

高橋「木村さんもそうですし、あと、同じ日産自動車の金田(喜稔)さん。うまいなって思って見ていました。木村さん。金田さんは海外でプレーしたらどうなんだろうって。きっとやれていたんじゃないかって思いますけど」

――週刊少年ジャンプで「キャプテン翼」の連載が始まったのが1981年でした。日本のワールドカップ出場など“夢のまた夢”という時代に、主人公の大空翼は「ワールドカップ優勝」を掲げるわけです。

高橋「やっぱり夢は大きいほうがいい。“ワールドカップ出場”よりも、“ワールドカップ優勝”のほうがいいな、と。優勝っていずれはいけるんじゃないかって。奥寺(康彦)さんはケルンでリーグ優勝(1977-78シーズン)して翌シーズンに欧州チャンピオンズカップで準決勝まで進んだわけです。ブンデスで一番強いチームに所属して、試合にも出ていて、個人では世界に通用するところまで来ているんだと。もし奥寺さんが11人いたら、ワールドカップに出られるんじゃないか。いや、奥寺さんみたいに欧州で活躍する選手が増えたら、そのうちワールドカップ優勝もいけるんじゃないかっていうイメージが膨らんできたんです」

――「キャプテン翼」では大空翼のサッカー人生に大きな影響を及ぼすロベルト本郷が日系ブラジル人で、またGKの若林源三は西ドイツに留学します。「キャプテン翼」は世界とつながっていて、ブラジルと西ドイツが近い存在として描かれているように思います。その奥寺さんはまさに西ドイツで活躍していました。

高橋「ドイツにはゲルマン魂があって、日本には大和魂があります。サッカーの組織力というところでも似ている感覚です。日本が1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得できたのも、ドイツ人指導者デッドマール・クラマーさんの影響が大きかったはず。西ドイツのサッカーと、もう一つは当時JSL(日本サッカーリーグ)で人気のあった読売クラブに象徴されるブラジル流。その2つが、日本サッカーに深くかかわっているとは思っていました」

気づけば翼くんと同じ10番に注目。

――日本代表での印象深い試合、大会と言うと?

高橋「アジアを制した広島でのアジアカップ(1992年)ですかね。アジアで勝てない時期が続いていましたから、これならワールドカップに行けるんじゃないかって思えた大会でした。選手で言えば、10番のラモス瑠偉さんに注目していました。彼なら日本を世界の舞台に連れていってくれるんじゃないか、と」

――木村さんといい、ラモスさんといい、やはり翼くんと同じ10番に目がいってしまうわけですね。

高橋「ハハハハハ。本当にそうですね」

――日本はその後“ドーハの悲劇”を経て、1998年のフランスワールドカップ出場を決めます。高橋先生はフランスまで行って日本代表を応援されています。

高橋「日本が出場することで、ワールドカップの楽しみ方も変わりました。やはり国同士の最高の戦いを楽しめますし、サッカーの見本市でもあると思います。そういう楽しみ方が一つ。そして純粋に日本を応援する楽しみが増えました。日本が負けるのを見ると、凄く悔しいですよね」

――このフランスワールドカップをきっかけに、欧州に挑戦する選手が増えていきます。翼くんもサンパウロを経て、バルセロナに渡りました。

高橋「ブラジルのタレントも欧州に行く流れだったので、サンパウロの翼は欧州のどこでプレーするんだろう、と。フランスワールドカップのときにフランス国内で宿が取れず、バルセロナに泊まったんです。バルセロナの攻撃サッカーは僕も好きでしたし、スタジアムのカンプノウを実際に見たときに翼をここでプレーさせたいなって思ったんです。当時はセリエAが欧州最高峰と呼ばれていましたけど、バルセロナがいいなって」

――もし宿泊先がマドリードならば、レアルだったかもしれませんね。

高橋「そうだったかもしれません(笑)」