町山だの何だの、こういうリベラル系文化人もいまいちなんだよなぁ。
なんで、すぐに政治文脈で語り始めて、ちゃんと作品批評してあげないんだ?
この歌、よく詞を読んでみたら、日本語をろくに知らない日本語に慣れてない奴が作ってるだろ。
特に敬意を表す接頭語の使い方が小中学生レベルじゃないか。
例えば
>この身体に流れゆくは気高きこの御国の御霊

という箇所に典型的な「御」の使い過ぎね。
「自他」の認識に鈍感過ぎて、「敬意・敬愛」というものと「自賛・自愛」というものとの心理上・表現上の区別すらついていない。
これは医学的な観点からは発達障害の症例の一種とみなされるだろう。
ちなみに辞書(大辞林)で「お(御)」という語を引いてみよう。
お…相手や第三者に対する敬意とともに、相手のもの、相手に関するものであることを表す
とある。
つまり、「御」をみだりにつけることは「(自分たちのものではない)あなた方の」という意味を伴ってしまうのさ。現代のビジネスシーンでも頻繁に用いられる「御社」というのが典型的な用法だ。
こういう日本語の基礎知識すらない者が、どういう了見で日本国なり日の丸なりを礼賛する歌を作ろうと思ったのか。
ここが問題の中心にならざるを得ないんだが、
野田なる人物が帰国子女という話を聞くと、なるほどねと頷かざるを得ない面があるわけ。
いじめや仲間外れに怯えて日本的共同体に過同調、過順応しようと震えながら毎日を過ごしている哀れな存在というものが浮かび上がって来ざるを得ないんだよ。
過度の同調圧力が支配的な共同体にあって、帰国子女というともすれば排除されがちな存在と、社会の下層に沈んでやはりともすれば排除されがちなネトウヨが、
幻想の国家像にすがりつき「御、御、御」と泣きわめいた時、似非エリートとB層との奇妙で不健康な邂逅と共振が成立してしまったのさ。
こうして分析してみると、これは排除圧力が強まる中における、真っ先に排除されがちな者たちによるSOSとしての過剰順応と過剰適応の結果生じた歌だと言えるな。
これは以上のような文脈で解釈すべき異常事態であり、情況はそれだけ醜悪化、不健全化しているとみるべき。