時計2018/6/13 15:17神戸新聞NEXT
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主宰する劇団で高校生らに演劇指導をする北原雅樹さん=加古川市加古川町寺家町(撮影・大森 武)
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トラック運転手をしていた頃の北原さん(本人提供)


 高校生の時にお笑いコンビでデビューした俳優の北原雅樹さん(41)。アイドル並みの人気を博し、ドラマにも出演したが、ほどなく勢いは衰え、芸能界を引退した。
いったんは会社員として働いたが、再び表現者の道を歩むように。波瀾(はらん)万丈の軌跡で「今が一番幸せ」と話す。(塩津あかね)

 デザイン事務所や司法書士事務所、トラックの運転手と、さまざまな職を経験した。

 僕は挫折しまくっている。そのたびに「社会に必要とされていない」と落ち込んだが、妻と子どもがいた。家族に必要だと思うと頑張るしかなかった。

 高校時代にお笑いコンビで人気を集め、「笑っていいとも!」などにレギュラー出演したり、ドラマで内田有紀さんら人気俳優と共演したりした。あっという間に駆け上がったが、落ちるのも早かった。数年でみるみる仕事が減っていった。

 俳優として生きていこうと思ったが(出演依頼が途切れるようになり)、家族を養うため、東京のデザイン事務所で契約社員として働き始めた。
本やパソコンを見て、自分たちのホームページやチラシを作っていた経歴が買われた。それでも俳優の仕事が入ることがあり、勤務先を休むしかない。収入を補うために、イベントの会場設営の仕事も始めた。
当時は、俳優にしがみつくために時間稼ぎをしている状態。実際は収入の大半を俳優以外の仕事から得ており、(家計を安定させるため)芸能界から引退しようと決断した。

 両親が阪神・淡路大震災後に移り住んだ加古川市内のデザイン事務所に正社員として就職。営業で社長に同行すると、訪問先のみんなが、芸能人だった僕としゃべりたがる。
次第に社長に疎まれ、半年ほどで閑職に。会社でずっとパソコンの画面を眺めるだけの日々が続いた。

 ちょうど2人目の子どもが生まれ、給料も良かったので退職したくてもできない。東京で「俳優を辞めたんねん」と大口をたたいた手前、すごく我慢して働いていた。胃潰瘍で吐血し、やせていった。
妻に「死ぬから(デザイン事務所を)辞めて」と懇願され、司法書士事務所に転職した。ここでも正社員だったが仕事が激減したので、8カ月でリストラされてしまった。

▼最低点の履歴書

 転機は2011年。ハローワークの職員の一言だった。

 職探しのために履歴書を書いて、採点してもらうと最低点だった。どこにも受からないと。びっしりと書き込んだのに「君が何をしていたかが全く書かれていない」と言われた。
芸能界にいたことは、恥ずかしくて全て隠していた。「芸能界でそこそこ売れていて…」という話をすると、「なんで俳優をやらへんねん。それをやったらいい」と助言してくれた。
帰りの車の中で涙があふれた。妻にもう一回、俳優をやりたいと告げると「私はずっとそう言っているけど」と。自分で無理だと思って妻の言葉を聞き流していた。

 人づてに、地元コミュニティー放送局「BAN−BANネットワークス」のキャスターを紹介してもらい、売り込んだ。すぐに返事をもらえず、別の仕事をしないといけない。
手に職を付けようと通っていたフォークリフトの安全講習で知り合った人の紹介で、トラックの運転手を数カ月続けた。

 そんな中、タレントだった妻と2人で週1回、ラジオとテレビの同時放送をする仕事が入った。1年間、放送が終わった後、スタジオにこもって、しゃべる特訓をした。今はニュースや天気予報など、全部自分で読むことができるようになった。

▼好きなことをやる

      ===== 後略 =====
全文は下記URLで

https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201806/0011349396.shtml