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1983年ラジオマガジン2月号
森田童子インタビューより


森田『女系家族の中で育ち、女の嫌な部分、泥々した部分を見過ぎてしまって、女を感じさせる女性は苦手になってしまった。』

森田『昔は対人恐怖症がひどかった。親に人見知りしてたぐらいだから』

森田『高校時代、お金が欲しくてアルバイトしようとすると父がお金をくれたの。これからは暇に耐えられる人間になることが大事だ、というのが父の教育方針だったのね。おかげでずい分と暇には強くなったわ』

彼女は高校半ばにして、不幸にも胸をやみ、転地治療という形で3年間を北海道で過ごした。その時代,'60年代末期は,学園闘争が激しく吹き荒れていた頃だった

森田『 私は何もできない。動けなかった。私の歌は,周囲を見ていた自分の意識の投影なんです。
人も風景もどんどん変わっていく。たけど自分だけが同じ所にいるような気がして…。何もしていなかった時間を,どうやって経験してきたか。
こうなって欲しかった。多分こうだったんじゃないかという想いが、私の一つのエネルギーになっているんです』

北海道での文字通り”暇”に耐える生活。1日中誰もいない部屋の中で、1人ぽつねんと何もしないで座っている。話したいけど話す相手がいない。
口の中が変に重たくなってくる。彼女がギターをとって曲を作りはじめたのは、そんな状態の中でだったという

森田『他の音楽から影響を受けたり,学習塾みたいにテクニックやコードを勉強してもしょうがないじゃない。ある人の作った音楽はその人だけのものだし,他人が真似しようとしてたってできるものじゃないわ』

と言う彼女も、不思議なほど音楽を聴いていない。ただ,高校生時代に強くひかれ、今でも大切に持っているサイモン&ガーファンクルの『明日に架ける橋』を除いては

森田『何もしないで生きる方法ばかり考えていた。でも、そういう訳にもいかないわけで、何かしなければいけない。それが私にとっては歌だったんですね。』