カズと読売閥

確かに、これまでカズさんの歴史が語られる時には、単身でブラジルに渡ったかのようなエピソードが紹介されてきました。実際は違うんですよ。

カズさんがブラジルで成功して、日本に逆上陸するまでの過程には全て納谷さんが関わっていましたからね」

 一般的には容易に理解できない、複雑な親子関係──。

まだカズが9歳、兄・泰年(47)が10歳だった、76年4月6日、納谷氏は覚せい剤取締法違反の疑いで最初の逮捕をされた。

 同著に引用された、納谷氏の地元で発行される静岡新聞に当時掲載された記事によれば、

〈納谷から覚せい剤を買っていた盛岡市内の元暴力団員の自供から、納谷が韓国で覚せい剤を大量に買い込んで国内の暴力団員などに売りさばいていた事実がわかり、盛岡署員らが内偵を進めていた。

(中略)納谷は、五年間は何度でも使える数次旅券を所持し、これまでに十数回も韓国へ渡っていることなどから、覚せい剤を買い入れるブローカーをしていたとみられ、同県警、同署では七日から納谷の覚せい剤密売ルートなどを追求する〉

 と、生々しく書かれている。

「当時のことを納谷さん本人に確認すると、逮捕歴を隠すどころか
『俺は捕まっても口を割らなかった』などと自慢げに話したことには思わず笑ってしまいました。ポイントはそこじゃないでしょうって」(田崎氏)

 当時、納谷氏は静岡市内に日本初となるサッカー専門のスポーツ店を経営。
皮革製品の安い韓国でボールを製造し、輸入していた。それとこの逮捕は結び付けられ、逮捕直後の新聞では、

〈サッカーボールの中に覚せい剤を忍ばせ運んだ可能性もある〉などと糾弾されたものである。しかし、実際には韓国からのボール製造、輸入と逮捕は無関係だった。

 それでも納谷氏は懲りなかった。

 78年7月8日に再び、麻薬取締法違反で逮捕され、翌79年2月にはとうとう懲役1年10月の実刑判決を食らったのだ。


岡田叩きの工作員の正体