【訃報】「人間発電所」元プロレスラーのブルーノ・サンマルチノさんが死去 82歳 ★2
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“人間発電所”プロレスラーのブルーノ・サンマルチノさんが死去 82歳
4/19(木) 1:23配信 デイリースポーツ
https://www.daily.co.jp/ring/2018/04/19/0011177559.shtml
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180418-00000152-dal-fight
ジャイアント馬場引退試合での(左から)ザ・デストロイヤー、ブルーノ・サンマルチノさん、ジン・キニスキーさん=1999年5月2日、東京ドーム
https://daily.c.yimg.jp/ring/2018/04/19/Images/11177913.jpg
ブルーノ・サンマルチノ氏=2000年撮影 (AP) Photo By スポニチ
https://www.sponichi.co.jp/battle/news/2018/04/19/jpeg/20180419s00003000118000p_view.jpg
WWWF世界ヘビー級王座はサンマルチノ氏の象徴ともいえる(1964年10月)
https://img.tokyo-sports.co.jp/wp-content/uploads/2018/04/cb3f7bd94a1b786f083caef2bf6d3274.jpg
ブルーノ・サンマルチノさん。当時、胸囲は148センチ、二の腕は51センチと報じられた(1967年)
http://www.hochi.co.jp/photo/20180419/20180419-OHT1I50121-L.jpg
人間発電所の異名を持ち、日本マットでもジャイアント馬場さんらと激闘を繰り広げたプロレスラーのブルーノ・サンマルチノさんが18日、米ペンシルバニア州ピッツバーグで死去した。82歳。
米プロレス団体WWEの公式サイトや、米の複数メディアが伝えた。
死因は不明だが、ここ数カ月は健康上の不安を抱えていた。現地時間同日、家族に見守られて息を引き取ったという。
サンマルチノさんはイタリア出身。長年WWWF王者として君臨し、MSG(マジソン・スクエア・ガーデン)の帝王とも呼ばれた。13年にWWE殿堂入りした。
日本では日本プロレス、全日本プロレスに参戦。
馬場さんの死後、99年5月2日の全日本東京ドーム大会で行われた「ジャイアント馬場引退記念試合」で“対戦相手”として、リングに上がったのが日本マットでの最後の雄姿となった。
TRUE WORLD CHAMP WWE’s legend Bruno Sammartino dead aged 82 as longest
reigning heavyweight champion passes away in sleep
https://www.thesun.co.uk/sport/6085094/wwe-bruno-sammartino-dies/
https://www.thesun.co.uk/wp-content/uploads/2018/04/nintchdbpict000399808801-e1524065021776.jpg
★1がたった時間:2018/04/19(木) 00:59:22.66
※前スレ
http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1524067162/ 馬場の引退試合にいた面々も、かなりいなくなってしまったな
わずか20年ほど前の事なのに、寂しい カナディアンバックブリンカー!ありゃ痛そうだと当時思ったが、腰痛にきくかも 【長寿】「人間発電所」元プロレスラーのブルーノ・サンマルチノさんが82歳まで生存 ★2 >>12
そろそろ目を覚ませ
強豪ぞろいの全日外人レスラーの中、弱い方から数えた方が早い
プロレスラーとしては一流 サンマルチノの試合でいうと、猪木アリ戦の後日に「決着戦」として
MSGで金網マッチで行われたハンセンとの第3戦が印象的
https://youtu.be/pXRSIQ1i9Qk
実によく動き、エネルギッシュ
首を折られて4か月後でこの勇姿
十年以上前の全盛期はどんなだったんだ サンマルチノの試合でいうと、猪木アリ戦の後日に「決着戦」として
MSGで金網マッチで行われたハンセンとの第3戦が印象的
https://youtu.be/pXRSIQ1i9Qk
実によく動き、エネルギッシュ
首を折られて4か月後でこの勇姿
十年以上前の全盛期はどんなだったんだ >>前スレ905
> これ見たら8月7日MSG以降もサンマルチノVSハンセンの
> WWWFタイトルマッチをやってるね
日本の一般的な「プロレス史」だとハンセンは1976年8月のサンマルチノとの
「決着戦」の後「危険なレスラー」として東部マットを追放され、入れ替わるように
ブロディがWWWFマットに上がる、…ということになってたはずなんだけど、
現実にはMSG定期戦でスタージャックが王座挑戦している11月末の定期戦以後も
ハンセン・ブロディいっしょくたになって、サンマルチノとの抗争を東部巡業で
繰り広げ続けていたんだな
ハンセンなんか首降り事件のあと半年以上にわたり、!サンマルチノと20試合も戦ってる
どこが「追放」やねん、という感じだwww あくまでも勝手な想像だけど
サンマルチノのが活躍してたNYの風景や
いろんな場面が映画「レイジングブル」と
同じなんじゃねぇかと 名前しか知らん世代だが
ブルーノ・サンマルチノ
フリッツ・F・エリック
キラー・コワルスキー
バディ・ロジャース
ジン・キニスキー
この5人てなんかセットで出てくるよな
そことはちょっと違う立ち位置に
ルー・テーズ
ダニー・ホッジ
アントニオ・ロッカ
ドン・レオ・ジョナサン
ザ・シーク
ゴッチとロビンソン等々 生前にビンスとの和解、WWE殿堂入りを見られて良かった
ご冥福をお祈りします
■ レスラー 訃報
2014
ビル・ロビンソン
アルティメット・ウォリアー
2015
バーン・ガニア
ニック・ボックウィンクル
ダスティ・ローデス
阿修羅原
2016
ブラックジャック・マリガン
ジプシー・ジョー
マイク・シャープJr
チャイナ
ケビン・ランデルマン
永源遙
米村天心
ハヤブサ
ハーレー斉藤
2017
ジョージ・スティール
イワン・コロフ
ジミー・スヌーカ
チャボ・ゲレロ
オットー・ワンツ
ロン・スター
ロン・バス
ラリー・シャープ
トム・ジンク
フィッシュマン
ドン荒川
ミスター・ポーゴ
デビル紫
大剛鉄之助
泉田純
阿部四郎 2スレ目とかプ板よりはるかに伸びてるな
やっぱ今やこっちの方が年齢層高いからか 馬場とは60年代以来の親友だが、何で白人のアイドルが遠征中の日本人なんかに
親しくしてくれるのかと子供の頃は思っていたものだったが、サンマルチノは
当時のニューヨークの白人ヒエラルキーの中では最低に近かったイタリア系
アメリカ移民たちのアイドルだったんだな
差別がきつかった頃にNYやボストンで港湾人足として働かされていたイタリア系
移民が、日頃のうっぷんを晴らす場としてプロレス会場に押し寄せた
「サン・マルティーニョ」っていうのも「サン・マルコの子」っていう意味で、
日本なら「大和一郎」「日之本太郎」みたいなストレートすぎるネーミングで
イタリアンには涙の出る名前だったんだろう
「ジャイアント台風」なんかの梶原センセイの漫画では、馬場に意地悪をした
アントニオ・ロッカが以後おちぶれる、という話が盛られてるけど、これも
イタリアンのアイドルとして持ち上げられていたロッカがその役をサンマルチノに
バトンタッチする時期だったということでしかなかったわけで
「ゴッドファーザー」の世界は東海岸の伝統だ 人間風車ビル.ロビンソンは元気かな
来日のたびにマイナーなCベルトを猪木に
奪われてた8の字固めのレスラーの名前が出てこない 思い出した ジョニー.パワーズ!
米のマイナーな地区のチャンピョンだったけど
なんか好きだったわ キム.イル 大木金太郎も思い出してね
猪木との試合は面白かったー サンマルチノは渡米以来死ぬまでずっとピッツバーグに住んでて
全盛期は月1でMSGに出勤してWWWF王座防衛戦をやってた 大木金太郎は密航して来日したんだな、野球の白仁天と同じ
全盛期は日本で活動しつつ時々ソウルで極東ヘビー級防衛戦をやってた この歌のサビはイケる
ガッツだぜ、愛は勝つ、それが大事
そして2018年は
『人生はリベンジマッチ』
↑
名曲、ユーチューヴ検索
★カバー、コピー大歓迎。 女性が歌ってもイイネ 先週ブルーノマーズのスレで名前出てたけどまさかこんなスレを見ることになるとは サンマルチノ全盛期のWWWFは年間興行数が最大280、週に4〜5日は試合を
していたわけで、人気のサンマルチノは年間200試合にも出場していた
アメリカではテレビに頼れなかった時代、毎日のようにタイトルマッチが行われ
王者は連日挑戦者と抗争を繰り広げた
ビンス・マクマホンが1971〜2年にNWAに加盟しAWAと提携したのは、人気の
サンマルチノの腰痛が悪化し、プエルトリカンに人気のペドロ・モラレスを
王者にしたものの地方では客入りがイマイチだったため、カードのマンネリ化を
改善するため挑戦者や脇役レスラーの供給先を確保したかったから
(だからNWAに加盟しながら、ずっとNWA王者の防衛戦は不要とうち捨てて
アンドレのブッキング権確保の方を優先した。ゴッチがWWWFタッグ王者に
なったのもこの頃のこと ) ちなみに全米遠征中の馬場が殿堂MSGでサンマルチノの王座に挑戦したのを
過大に持ち上げているのは日本のマスコミだけ
現地では馬場を売り出して最初に挑戦させた時のMSGが記録的な不入りになり、
普通三ヶ月間は挑戦者との抗争を引っ張るのが不文律だった時代に、馬場は客を
集められないと見切られてしまい、初戦でいきなりサンマルチノのカナディアン・
バックブリーカーでギブアップする完全決着、1試合でお払い箱になってる
しかしあまりの醜態に日本のプロレスマスコミは「3本勝負の一本目を取らせて
さあこれからという時に夜間興行打ちきり
時間切れの0-1負け」という国内向けのストーリーを捏造し、当の馬場は破格の
ギャラに満足し、MSGのメインに登場したことを自慢話として語り続けていた
WWWF →WWF史については、ここ二年くらいの「Gスピリッツ」の連載が
ムチャクチャ詳しくて凄かった
60〜90年代に語られていたアメプロ史がいかにデタラメで梶原劇画チックな
ヨタ話だったかビリビリ伝わってくる労作で、ぜひ増補して単行本化してほしい >>23
フィッシュマン亡くなってたのか・・知らなかった
この人はマスク脱がなかったほうが良かったな
脱いだ時なんか生き恥晒したような感じだったから >>44
当時 所詮、馬場はサム・マソニック(アシュケナージ・ウクライナ系ユダヤ人)や
ハリー・レイス等NWA系の人間
WWWF、ビンス・マクマホーン一家にとっては外様同然 電気うなぎのように細胞を直列につないで体内電気を生み出すことができるのだっ! イタリア移民のヒーローとして君臨したのはまさに人種のるつぼニューヨークならではだが、
その代わりというか、他地区ではこの人の活躍はさほど耳に入ってこなかったな。
同じ移民系ヒーロー?のラテンの魔豹モラレスは西海岸でもWWAを獲り、馬場、猪木双方に
接点、ライバル関係があった。比較してどうという話じゃないがブルーノは義理堅く、また
不器用なタイプなのかな。。 >>23
あんなドラッグまみれのWWE殿堂なんて入りたくないと言っていたのを
HHHが改善するための努力を色々していることを細かく説明して
納得してもらったんだよね。 >>46
レイスは元々AWAじゃなかったか?
AWAのスーパースターはシングルはガニアとバション
タッグはクラッシャー・ブルーザー組とヘニング・レイス組
SF地区に置いたUSヘビー級はスチーブンス 初来日した頃の力道山との死闘も忘れられない。仕事帰りに新橋駅前の街頭テレビで見て手に汗握った記憶を思い出した。 昭和の小学生が夢中で読んだプロレススーパースター列伝!
もう一度読んでみたい ヘイスタック・カルホーンを笑顔で担いでる写真は、インパクトがあったな >>18
相手誰かと思ったらハンセンか
若い頃のデビッドシュルツかと思ったわ >>46
そもそもビンス・シニアはNWAのメンバーだった。
WWWF誕生前に馬場はアントニオ・ロッカ、ブルーノ・サンマルチノ
らと対戦しててバディ・ロジャースのNWA世界ヘビー級王座にも挑戦してた。
シカゴのフレッド・コーラーがNWA会長に就任すると
全米人気ナンバー1レスラーのバディ・ロジャースをNWA世界王者にしたら
フレッド・コーラーはビンス・マクマホン(シニア)ら一部のプロモーターと
ロジャースを独占するようになったのでロジャースを地元によべない連中が反発して
フレッド・コーラーを会長から引きずり下ろし、サム・マソニックが会長になって
ルー・テーズを担ぎ出してロジャースをNWA王者から転落させたので
ビンスが激怒してWWWFを創設することになった。
後にビンスはサム・マソニックと和解してNWAからWWWF(WWF)に
選手が来るようになってレイスVSバックランドのNWA・WWFの
ダブルタイトルマッチとかするようになった。
1983年(昭和58年)にWWFの政権がシニアからジュニアに代わって
NWAを脱退し、1984年になるとテリトリー制を無視して全米に興行戦争をしかけた。 フロリダのレストランで見かけたことがあるけれど、オレより背が低くてちょっとがっかりした。 馬場は日プロを辞めて全日を旗揚げすることになり
サンマルチノは全日旗揚げから昭和50年までに4回全日に参戦してた。
昭和49年5月新日のワールドリーグ戦にビンス・シニアが来日、
全日はマディソンスクエアガーデンシリーズ開催後、
馬場はWWWFが新日と提携するのか確認するために
ニューヨークに行ってMSGにも出て、ビンス・シニアと会談。
昭和50年サンマルチノは全日に来て5月9日に
馬場とWWWF・PWFダブルタイトルマッチ。
WWWFと新日の提携が決まってサンマルチノは新日に行く事を拒否し、
モラレスも日本の記者に新日に行かないと言ってたが
モラレスは新日に来るようになった。
サンマルチノがビリー・グラハムに敗れてWWWFヘビー級王者から
転落してグラハムからWWWF(WWF)王者は新日に来るようになった。 小学館の学年誌の付録プロレスラー名鑑の最初の方に載ってた
ジャイアント馬場は東洋の巨人だった ブルーノに怪我させたハンセンはマフィアに狙われてニューヨークから離れざるを得なかった。 >>69
ハンセンがサンマルチノを負傷させた後、何度も対戦してるよ。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=440&page=4&s=2200 そこらへんのホームレスのおじさんに美人記者をあてがってしつこく取材をさせるでしょうか?
しませんよね。
相手が金持ちだったり権力者だったりするから見返りを求めて機嫌をとりにスリ寄るわけです。
官僚は、国民から自らに与えられた権限を横領する形で、すり寄ってくるマスコミに機密情報を流したりする。
つまり、マスコミは「財務省が握っている権力のオコボレ」を頂戴しようと横領をそそのかしていたのです。
権力や税金の横領をそそのかしているのがマスコミの取材だった。
今回の財務省の騒動は、セクハラ問題ではなく「マスコミと官僚機構という権力の癒着」の
問題なのです。
その証拠に、マスコミ各社は財務省が推進する消費増税を賛美する記事を書き連ねていたでは
ありませんか。
その見返りとして、新聞は消費増税の対象外にしてもらったのです。これも官僚とマスコミの癒着が
生み出した税金の横領の一例。
これはセクハラ問題ではありません。「新聞社と官僚機構の癒着と横領」の問題なのです。 馬場の背骨がへし折られるか、サンマルチノの脳天が砕かれるか?! 息子さんは大成せんかったな
まあジン・キニスキーの息子もそうだったが >>23
>>26
プロレス関係者として加えるのはいいけど
阿部四郎入れて仲田龍入れないのはなあ >>77
引用したまとめサイトに名前がなかったので忘れていました
まあ知っていても中なんとかの犬畜生の名前なぞ出したくもありませんが >>44
じゃあ何でシニアは61〜62年にかけて馬場を1年半も使い続けたのよ?
64年のサンマルチノ戦に至っては前日にN.Y.入って試合翌日にはL.A.にいるほどの強行軍
どう考えたってシニアが拝み倒してなんとかねじ込んだようにしか見えない
お陰で結果は大成功、いち新興団体からすればまさに救世主だよ
そもそも近年のジュニアの作ったWWE史観を真に受けるなんざ、
あの漫画みたいなリング上のストーリー真に受けるのと一緒だぞ 当時のプロフィールは187cm128kgとある。
しかし馬場が解説席で彼は180cm切れるんですよね。と解説した。
全日本はレスラーの体格を誇張しないところは良かった。
新日本はデタラメな体格をコールしていた。
例えばダステイローデスやデイックマードックは全日本では186cm130kgと186cm114kgとコールされたが
新日本のリングに上ると猪木や藤波よりもかなり大きかった。
猪木の192cm 藤波の188cmというのは相当サバをよんでたな。 猪木は187
藤波は184の俺の肩までしかなかったからお察し >>12
レスラーとしてはブロディもハンセンも日本では成功したけどガチならマードックやバッドニュースアレンより遥かに弱いだろ >>69
ニワカ乙
サンマルチノの提案でライバルに抜擢されたんだが >>70
このサイト本当にありがたいね
しかしハンセンは首降り事件のあと半年以上にわたってサンマルチノと抗争を続け
7度のタイトルマッチを含め20試合も戦ってる
一体どこが「追放」やねん、という感じだwww
櫻井さんや竹内さんなんかの「日本の一般的なプロレス史」だと、ハンセンは
事件二か月後の1976年8月にサンマルチノに花を持たせる「決着戦」をやった後は
「危険なレスラー」として東部マットを追放され、入れ替わるようにブロディが
WWWFマットに上がる、ということになってたはずなんだけど…
現実には2週間後の8月20日にはもうピッツバーグでWWWFタイトルに挑み、
サンマルチノに勝っているし(反則勝ちで王座移動はなし)、ブロディが王座に
連続挑戦した9月・10月のMSG定期戦ではタッグでアンドレ&ストロンボー、
ポトスキー&モンスーンといった大関クラスに勝っている。
実はハンセンはビンスのお気に入りとして重宝に使われていたとしか思えない。
以後も9月にはフィラデルフィアのタイトル戦でサンマルチノにリングアウト勝ち、
10月にはメイン州バンゴーでブロディと夢のタッグでストロンボー組に勝利、
11月にはサンマルチノと怒涛のWWWFタイトル三連戦。金網マッチ2試合の後、
フィラデルフィアでのランバージャック戦が東部との暫くのお別れマッチになる
その後1月からハンセンは新日本に上がり、あのファイトスタイルを形作る
ジョージア地区で腕を磨くことになる ビル・ロビンソンとブルーノ・サンマルチノを足したら
人間風力発電所(´・ω・`) >>84
長州は173の自分と並ぶとちょっと小さいくらいだったな
「パワーでは誰にも負けない!」と言っていた維新軍団が並ぶと、一番背が
高かったのがジュニアの小林邦明だったのは見ていて恥ずかしかった記憶が プロレススーパースター列伝はリテラシーを鍛えるのに
有効な良著。 正義と悪魔に分かれたときに颯爽と正義側に立って戦った人? >>88
1976年8月7日サンマルチノVSハンセンのケージマッチが
行われた日、ブルーザー・ブロディがMSGに初登場。
ブロディVSケビン・サリバン
https://www.youtube.com/watch?v=GSPR4rKq7U8
この後、ブロディもWWWFヘビーに挑戦するようになったので
サンマルチノはボロボロの状態で後の超獣コンビを相手に防衛してた。
https://www.cagematch.net/?id=2&nr=243&page=4&s=100
WWWF時代のブロディVSアンドレ(6人タッグだが)とか
WWEが動画を公開してくれてるね。
https://www.youtube.com/watch?v=j5CPBjO4-NU イタリア人、特に南部は欧州白人の中でも小柄な部類。
背は低いがマッチョで強いサンマルチノは、
コアなファン層のイタリア系ニューヨーカーにとって、
背の低い力道山が大男のアメリカ人レスラーをなぎ倒すのに、
溜飲を下げた戦後の日本人と同じ構図なのだろう。
と、もっともらしいことを言ってみた。 ベアハッグでドラム缶3本を潰した。昔の漫画本に
あった。 >>95
それがもっと極端だったのがサンマルチノの前任者の「イタリアの星」、
アントニオ・ロッカだったらしい
巨漢の対戦相手より明らかに小さい身体で、しかし俊敏に動き回り跳ね回る
その姿は、アンドレやハンセン、ホーガンを相手に猫のように駆け回っていた
猪木みたいな印象だったとか
しかもロッカはその小柄な体格で相手を翻弄し、裸足の怪鳥ドロップキックで
追い込んだ後のトドメが、エアプレーンスピンでぶん回してからの怪力技・
アルゼンチン・バックブリーカー
小柄なロッカが巨漢の相手を担ぎ上げ、ドンドンとマットを踏みしめてギブアップを
迫る絵面は今みても凄いと思う
サンマルチノはそこにさらに肉厚なパワフルさを加えたカリスマだったんだろうね リングネームも、
アントニオ・ロッカに
あやかって
アントニオ猪木と
いうのは
どうだ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています