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お互いを深く理解し合うようになったキッカケの大会、EURO2016の会場にて
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ハリルホジッチ監督が解任された。

 田嶋会長の会見を聞いた。

 東京五輪を見込んで、全員日本人で団結したかったということでしょうか。21世紀にしてその発想とは、虚しい。悔しい。

 私は、単一民族主義は間違っていると思う。理性を働かせて理解することはできるが、必ず失敗することも知っているから。

 ハリルさんが育った旧ユーゴスラビアの黄金期は、すくなくともスポーツや文化において、あらゆる民族、宗教、文化が混ざり合った'80年代だった。彼の母国であるボスニアで開かれた'84年のサラエボ五輪はその象徴だった。

 サッカーでも、マラドーナのアルゼンチンを追い詰めたオシム監督のユーゴスラビア代表は人種のるつぼだった。ハリルさん自身も異なる民族の血を引き、国際結婚をし、異国(フランス)で自分の子供たちを育てたのだ。

 だからコスモポリタンなハリルさんが日本代表の監督になった時、とても嬉しかった。日本サッカーが変わる、その確信があったのだ。

低いピッチの声、威厳のある言葉遣い……。

 私が初めてハリルホジッチ監督と話をしたのは、3年前の夏だった。

 フランス国籍も持っている彼に、在日フランス大使館からある依頼があったのだ。そこで、フランスのサッカー記者から教えてもらった彼の携帯電話にかけると、一発で出てくれた。

 「アロー(もしもし)?」

 低いピッチの声、威厳のある言葉遣いを未だに覚えている。なにより、フランスとフランス人に対する愛情をすぐに感じた。

 当時の在日フランス大使には、2015年11月にパリで行われる「第21回気候変動枠組条約締約国会議」(COP 21)を日本でPRするための、知名度ある親善大使が必要だった。ハリルさんは依頼を迷わず受けてくれた。

フランスという国に義理堅かったハリルさん。

 彼にとって、フランスは3度も恩を受けた国だ。

 '80年代には旧ソ連ブロックから脱出するチャンスを与えてくれたフランスの名門FCナントの恩を受けた。

 '90年代には旧ユーゴスラビア紛争中に、またも彼と彼の家族に手を差し伸べたフランス2部リーグのボーヴェの恩を受けた。フランス国籍も取得した。その後、リールやパリ・サンジェルマンで監督として活躍し(現役時代にもフランスサッカー界のエースだったことがある)、'00年代にレジオンドヌール勲章をもらったのが3度目の恩。

 義理堅いハリルさんは、フランスに対していつも感謝の心を抱いており、私はフランス大使館と彼との繋ぎ役になった。

つづく

4/16(月) 10:31配信 ナンバー
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