>>1つづき)

 演技に目ざめた岩下さんに恋の季節がおとずれる。

「乾いた湖」でコンビを組んだ篠田正浩監督と結婚。当時の映画界では女優の結婚は引退を意味していた。

「周囲の人の99パーセントから反対されました。周囲から猛反対されるので逆に『結婚しよう。それで駄目ならもともとそこまでの女優。結婚してさらにいい女優になろう』という決意で踏み切りました」

 この反骨精神、向日性こそが岩下さんの本質だ。

 やがてふたりは「表現社」という独立プロダクションを立ち上げて、夫唱婦随、独自の映画製作に邁進していく。その時期の岩下さんは、それまでの女優人生が助走に過ぎなかったと思わせる素晴らしい躍進を遂げる。

 それが篠田監督作品「心中天網島」における、おさんと小春という二役の演技だ。

「『心中天網島』は表現社の初めてのATG(日本アート・シアター・ギルド)との提携作品だったので、いい映画にして多くの人に見てもらいたいという意識が強くはたらき、作品に対する責任感のようなものを感じました。初めて自分で前売りチケットも売ったりしたんですよ。演技的には、おさんは人妻なのでお歯黒して声もアルトにしてリアルな話し方にしました。一方の小春は遊女ですから眉を細めに描いて白塗りにして、声も高めにしました」

 夫婦で努力して作った「心中天網島」は作品的にも興行的にも大成功をおさめ、岩下さんに多くの女優賞をもたらした。その後、「無頼漢」「沈黙 SILENCE」を経て表現社が軌道にのりはじめた1973年、長女を出産。しかし、女優、妻、母という三つの顔を持った岩下さんに限界もおとずれる。

「子供ができたころは自分の表現力に限界を感じていた時期でもありました。何の映画ということはないのですが、『ああやればよかった、こうすればよかった』と後悔することが多くなりました。それと、子供がかわいい盛りなのに他人に預けて仕事に行かなければならない、その母性の部分がなかなか自分の中で割り切れずに悩みました。2年ぐらい少しうつ病っぽくなってしまって……」

 役の中に深く入り込むタイプの女優である岩下さんを救ったのは、「はなれ瞽女おりん」のおりんという役柄との出会いだった。

「私は暗闇恐怖症だったので暗闇に慣れるために目をつむって食事をしたり、お化粧したり家の中を歩いたりして役に入り込んでいきました。篠田の演出、宮川一夫さんのカメラ、共演者の原田芳雄さんや皆さんに助けられて『おりん』を演じ切ることができ、達成感がありました。その体験で悩んでいた壁を乗り越えられて、『やっていこう、女優を続けるべきだ』と覚悟ができたのです」

 日本映画史にその名を刻む名作「はなれ瞽女おりん」は、女優としての岩下さんを成熟させた。

 40代に入った岩下さんの代表作は「極道の妻たち」だが、「あの極妻たちの持っている潔さは私と共通点があったので演じ続けることができたと思います」と話す。

 大ベテランになった岩下さんは必然的に若い俳優たちとの共演も多くなってきている。彼ら若い俳優のナチュラルな演技に対して、「一線でやっていらっしゃる方は現代の感性できちんとお芝居なさっているなといつも感心して見ています。その中に入るためにはそこに慣れなくてはいけないので、なるべくそういうものに近づきたいと思って演じています」と実に前向きだ。

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