日本カーリング史上初のメダルという快挙を成し遂げた彼女たちの話で、印象に残った言葉があった。
 試合から一夜明けての会見で、本橋麻里はこう言った。

 「4年に一度のカーリングと言われているのを、しっかり根付く努力をし続けないといけない。選手と協会一丸で、
この競技の素晴らしさを伝えていくことが大事だと思います」

 帰国後の見でも、吉田夕梨花が同じような内容の言葉を口にした。
 「カーリングは4年に一度のスポーツと言われています。常に注目していただけるスポーツにしていきたいです」

■2人の言う「4年に一度」にはカーリングに対する、これまでの歴史が込められている。

 平昌五輪で大きな注目を集めたカーリングは、実はオリンピックのたびに注目を集めてきた。

 2006年のトリノ五輪には、チーム青森が出場した。メンバーは小野寺(現・小笠原)歩、林(現・船山)弓枝、本橋、目黒萌絵、寺田桜子。
選手たちが見せる集中した姿、劇的なショットによる勝利も含めた試合展開の妙味もあって、大きなブームを巻き起こした。

 大会が進むにつれ、ワイドショーなどテレビで取り上げられるようになり、新聞でもクローズアップされた。
五輪特集の製作を進めていたスポーツ誌の中には、カーリングの表紙を想定していたところもあったほどだ。
帰国すると空港には多くのファンがつめかけ、その後に行なわれた日本選手権は空前絶後の観客が押し寄せた。

オリンピック“では”人々が注目する。

 2010年のバンクーバー五輪では、開幕前から期待と人気を集めた。
このときもチーム青森が出場し、目黒、近江谷杏菜、本橋、石崎琴美、山浦麻葉というメンバーであった。大会の前には取材依頼が殺到し
、1日で十数件をこなす日もある状態だった。

 2014年のソチ五輪は北海道銀行が出場。メンバーは小笠原、船山、小野寺佳歩、苫米地美智子、そして平昌の日本代表でもある吉田知那美だった。
結婚と出産を経て8年ぶりに代表となった小笠原と船山への注目をはじめ、準決勝進出の可能性を秘めた戦いなどで、やはり人気を集めた。
その中で吉田が、インフルエンザの選手にかわって急きょ出場し、試合を重ねるごとに高いパフォーマンスで活躍したのも記憶に新しい。

 カーリングはオリンピックごとに人々を惹きつけてきた。裏を返せば、オリンピックが終わるごとにブームが収まったことを物語っている。
それを「4年に一度」と選手たちは表現しているのである。

「今後も支援を受けてできるかどうか」

 オリンピックが終わればほどなくして関心が元に戻ってしまうことで、競技の地位や環境の向上という点においては大きな変化が望めなかった。
 今大会でも、この先を危惧する言葉があった。男子の日本代表として出場したSC軽井沢クラブだ。
4勝5敗で準決勝進出に最後まで可能性を残す健闘を見せたが、すべての試合を終えて、スキップの両角友佑はこう言った。
 「今後も支援を受けてカーリングができるかどうか。そのあたりの環境が整うのであれば、僕は続けたいと思います」

 彼らは男子20年ぶりの五輪出場を勝ち取ったばかりでなく(前回は開催国枠での出場のため自力出場は初)、
世界選手権4位になるなど屈指の実績を誇る日本のトップチームだ。そんな彼らでも、今後の活動には支援体制を考慮せざるを得ない。

 日本カーリング界には、そんな現実がある。