はたして「感動させてくれ」と叫ぶことが人目をはばかるべきことなのかという問題も 
あるが、私は べきこと だと思えてならない。はばかってくれよ、と思う。 
だって、ほんとにここ数年で、特にスポーツ絡みの「感動」はとてつもない快楽に直結 
することを学んでしまった上でのそのシュプレヒコールは「私をキモチよくさせて」という 
意味でしかないわけである。…「感動させてくれ」と叫ぶ善男善女の方々のほとんどは、自分が 
キモチよくなりたくて叫んでいることに気づいていない。 
「頑張ってお国のためにメダルを取って来い」というエゴイズムを悔い改めた正義が「感動させて 
くれ」だと思っているのである。 

(ナンシー関『何が何だか』角川文庫 2002年) 

このあと、ナンシーは、「メダルを取って来い」も「感動させてくれ」も、どっちもエゴだと切り捨てる。 
まったく慧眼である。彼女のこの冷静な視線は、かつては「あたりまえ」のものとして人々に 
共有されていたように思えるのだが、いまどきのニッポンの大衆は、なぜこんなにも 
「感動させてくれ病」に身を捩じらせてしまっているのだろうか。 
それとともに考えてみたいのは、「感動させてくれ病」の人々が「感動」できないと爆発させる行動だ。 
ものを投げつけるは、ぶっ壊すは、「2ちゃんねる」で悪罵を投げつけるは…。 

『感動禁止!「涙」を消費する人々』KKベストセラーズ