◆坊主頭が消えたのと上下関係が緩んだ時期は重なる。
 
「今はほとんどのチームで、髪伸ばしていいでしょ、学生野球も。我々の頃は、みんな坊主だったでしょ。六大学の慶應さんと東大さんぐらいですかねぇ、坊主じゃなかったの。
坊主頭って、なんか場の雰囲気を殺伐としたものにするような……そんな感覚持ってるの、僕だけですかねぇ」

大学のグラウンドに伺って、誰が4年生で誰が1年生なのか、わからなくなってきた時期が、ちょうど学生野球で“長髪”が一般化してきた時期と重なる。これが私の感覚だ。
学生野球の選手たちの髪型が、野球の現場の雰囲気を和らげている。

かつて、部員の数だけ坊主頭がひしめく学生野球のグラウンドでは、肩で風切って歩く上級生と、彼らの視線と恫喝に怯える下級生。それが学生野球の現場の当たりまえの“情景”であり、
そうした殺伐とした上下関係の空間で鍛えられてきたから、彼らは“強い”のだ……というある種の錯覚。

かつては、そんな考え方が支配的だった。

◆坊主頭は選手に対する不信感と言い切った指導者。
 
そもそも野球部の坊主頭とは、はたちぐらいまでの少年、青年たちはみんな坊主頭が当たりまえだった時代の風潮が、そのままなんとなく続いてきたものであろう。
間にあった戦争が、時代の緊張感イコール坊主頭みたいなムードを作って、坊主頭の“寿命”をさらに長びかせた。その程度の必然性のように思う。

「なーに、こいつら、頭、坊主にでもしておかなかったら、外で何するかわかりませんから!」
かつて、大きな声でそう説明してくれた監督さんは、坊主頭のことを、指導者の選手に対する“不信感”の象徴だと言いきった。

ならば長髪は、指導者の選手に対する“信頼感”の象徴になり得るのか。
そうなってほしいと願う。

今は、坊主頭も一種のファッションになって、それに似合う身ごしらえも何通りもあるようだ。
しかし、かつて頭を坊主にすることで選手たちの行動を縛りつけ、良からぬことをしでかすことの抑止力にして、いやでも野球だけにその一切を向けさせようとした「暗い時代」は、これからはもうはやりはしない。

◆たとえば甲子園で帽子の下が“七三”だったら?

得意の“妄想”が、また湧いてきている。
夏の甲子園、高校野球だ。

銀傘の下、ホームベースを挟んで試合開始の挨拶。「お願いします!」と帽子を取ったその頭髪が、たとえば一様にきちんと櫛を入れた“七三”だったら……。
それはそれで十分にさわやかであり、すがすがしく、新しい高校球児らしい姿なのではないだろうか。

そしてそのことで、なかなか高校野球の現場からなくならない感情的な制裁も、次第に減っていってくれたならば。
野球帽の下の“七三”は、オレたちの現場暴力排除の誓い! 

そんな時代がもうそろそろ来てもいいんじゃないのかな……そんなことをつらつら妄想しているこの年の暮れである。

(「マスクの窓から野球を見れば」安倍昌彦 = 文)