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て諸策百出して紛糾したが、座長格(西郷を除く)の篠原が「議を言うな」と一同を黙らせ、
最後に桐野が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、
全軍出兵論が多数の賛成を得た。永山はこの後も出兵に賛成しなかったが、桐野の説得で後日従軍を承知した。

2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まった。
この日、西郷を中心に作戦会議が開かれ、小兵衛の「海路から長崎を奪い、そこから二軍に分かれて
神戸・大阪と横浜・東京の本拠を急襲」する策、
野村忍介の「三道に別れ、一は海路で長崎に出てそこから東上、一は海路から豊前・豊後を経て
四国・大阪に出てそこから東上、一は熊本・佐賀・福岡を経ての陸路東上」する策即ち三道分進策が
出されたが、小兵衛・野村忍介の策は3隻の汽船しかなく軍艦を持たない薩軍にとっては成功を期し難く、
池上・桐野の「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用された。