南野陽子、デビュー当時の極貧生活を告白「(月給は)1年目3万、2年目6万」
https://www.excite.co.jp/News/entertainment_g/20150216/Cobs_131316.html

南野は18歳を迎えた1985年6月23日に「恥ずかしすぎて」で歌手デビュー。同年11月からの同局系ドラマ『スケバン刑事』で2代目ヒロインを演じ、多く人に知られる存在となった。

同番組の「初めてエピソード」のトークテーマで、「初めてもらった給料はいくら?」と聞かれた南野はフリップに「3万円」と書き、「(月給は)1年目は3万円、2年目は6万円とか」と毎年の契約によって変動があったことを明かした。

『スケバン刑事』の初代で、同じくゲスト出演した斉藤由貴もこれには「えっ!? 1カ月3万円?」「何ていう事務所ですか!?」とびっくり。
南野は「1位を歌とかでもらっても、『スケバン刑事』の主役でも、3万とか6万」「アイドルの時は本当に(お金が)なかったですね。10(万円)とかまで」と当時を振り返り、
「体はヘトヘトで、入院しながらとか点滴打ちながらやっているのに」と割に合わなかったことが当時の事務所から離れるきっかけになったという。

さらに、南野は「3万円、寮費を払っていた」と打ち明け、「鮭のおにぎりが当時110円。でも、おかかが100円だったから100円のおかか(を選んだ)」
「家に電話したい時は事務所とかよその家からする」など、親の仕送りに頼りながらの極貧生活を語った。


http://hanabusatokiichi.hatenablog.com/entry/2013091202

南野陽子も大手に所属すれば事情は違ったのかも知れませんが、彼女が所属したのは、エスワンカンパニーという弱小事務所でした。
この会社はピンクレディーの楽曲で知られる作曲家の都倉俊一氏が立ち上げた芸能プロダクションで、売り込みのノウハウがありませんでした。

女優業についてはエスワンカンパニーではマネージメントが出来なかったので、青年座にマネージメントを外注する形になりました。
この結果、南野はエスワンカンパニーと青年座に両属するような形になってしまい、急速に売れっ子になると、彼女のスケジュールを巡って両事務所が争い、頻繁にダブルブッキングが発生しています。

後に南野は週刊文春のインタビューにてそれが事実であることを認めています。その理由として、クライアントに迷惑をかけるダブルブッキングが頻発していたことを述べています。

また、そのインタビューの中で、当初はまともにマネージメントを受けられなかったこと、転機になった仕事は自分で営業活動を行ったこと、事務所独立時の確執についても述べています。
南野陽子の独立を契機としてエスワンカンパニーは負債を背負って倒産しているのですが、その負債が南野が知らないうちに南野名義になっていて、数億円と言うその負債を南野が背負ったそうです。
それが事実ならば刑事事件にもなるような話で、裁判に訴えれば南野は負債を免れたはずですが、アイドル南野陽子がそんなお金にまつわる醜い振舞をしては、ファンを傷つける、だから裁判には訴えなかったと述べていました。

これは南野陽子側の言い分ですが都倉氏から反論がなされていないため、大枠では事実と考えていいでしょう。