なぜいまラップ氏が当時のことを告発するのかという疑問を呈しているが、長い時間が経ったからこそようやく言えるようになったという可能性は十分にある。この点については『バイキング』でもゲスト出演していた弁護士が指摘していた。また、いまワインスタイン氏の告発によって、アメリカの映画界で性暴力の問題が重要視されているからこそ、言えるようになったことも大きいだろう。なぜいまなのか、という疑問は、過去に受けた性暴力の話はずっと黙っていなければいけない、ということになりかねないという意味で、非常に問題がある。

 「成人した男性同士のレイプはどこからどこまでがレイプなのかわからない。興奮したなら犯罪にはならない」という発言の問題は言うまでもないことかもしれない。例え性暴力の最中になんらかの身体的な反応が起きたとしても、それはあくまで生理現象であって、被害者が加害を受け入れた、あるいは快を覚えた、という話ではない。そもそもが暴力であって、これを「レイプではない」とするのは大きな間違いである。「どっちかっていうとその人(おそらく被害者だろう)が悪い」などというのは、言語道断だ。

 こちらも発言者は不明だが番組内(女性の声だった)で、「同意がなかった…」という声がマイクに拾われていた。同じコーナーの中で、この指摘はもっとはっきりとするべきだったのではないだろうか。

 こうした話の中で、坂上氏は「LGBTの問題はいまテレビでもデリケートで全然言えない。IKKOさんが言っていいことを僕は言っちゃいけないとか。よくわからない。オープンにした方がいいんじゃないのって思っちゃうんだけど、無責任?」と発言する。

 IKKO氏もデリケートに扱われることに疑問を覚えているという態度のようだ。「昔はカマ野郎とか言われたり、石を投げつけられたり、汚いと言われたりしていた。だけど毎日のことだったから、私たちは明るく生きていくしかないって思って、みんな新宿2丁目とかに来た。いまはナーバスな問題もいろいろあると思うし、でも一緒くたに腫物みたいにしていくと……」「ナーバスなことはナーバスにちゃんと言った方がいいと思う。でもあまりにもなりすぎた状態を作り上げてしまうと、私たちが苦しくなっていくこともある。だからそこは見極めてやらないと。難しい問題」と話していた。

 この「LGBT」を社会問題化することによって、むしろ当事者とされる人びとが息苦しさを覚えてしまうという指摘は、ときおり見かけるものだ。以前、「保毛尾田保毛男」の件について、ミッツ・マングローブ氏も類似の話をコラムに執筆していた。

 だが、性暴力の問題は、しかも報道の中で安易に「ゲイ」であることと性暴力や小児性愛を結びつけるような問題は、非常に繊細なものであり、発言のひとつひとつに注意が必要なものなのではないだろうか? むしろ「一緒くたに腫物みたいに」忌避するのではなく、丁寧に扱うことが求められているはずだ。それは言論の不自由を意味しない。

 IKKO氏は、番組内で、「私達の場合は、相手が自分のことを好きだと思っていたのに、それが違うってこともある。それを一概に、その人たちふたりの問題で、どこかがどこまで(レイプなのか)って問題は(言えない)。お互いの話を聞いているだけだから」とも言っていた。

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