“400戦無敗”の男と“最強”を標榜(ひょうぼう)するプロレスラーが闘った『PRIDE.1』から20年、ノンフィクション『プロレスが死んだ日。
ヒクソン・グレイシーVS高田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル)が出版された。

著者はプロレス、格闘技を最前線で取材してきたスポーツジャーナリストの近藤隆夫氏。
ヒクソンの多くの肉声とともに綴(つづ)った、今だからこそ明かせる真実とは? 近藤氏が特別寄稿―。

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「あのとき、私はすでにチャレンジャーの立場にはなかった。だから誰かと闘いたい、誰かを倒したいと考えるようなこともなかった。
プロモーターから、(ファイトマネーを含む)条件面で私を満足させてくれるオファーが届いた。
だからプロフェッショナルなファイターとしてリングに上がり、全力を尽くして闘い勝利した。
試合内容にも満足できたし、東京ドームのような大きな会場で試合をするのも初めてだったから、とてもよい思い出になったよ」

今から20年前の1997年10月11日、東京ドーム『PRIDE.1』での高田延彦戦をヒクソン・グレイシーは、そう振り返る。

緊張感漂う中で開始のゴングが打ち鳴らされ始まった試合は一方的な展開となった。リング中央でドッシリと構えるヒクソン。
高田は腰を引きヒクソンの周囲をグルグルと回り続けた。
だが、3分過ぎに捕まってしまう。展開がグラウンドへと移行されると、ヒクソンは余裕を持った動きで高田の腕を挫(ひし)いだ。

決して名勝負と呼べるような内容の試合ではなかっただろう。
ヒクソンの強さだけが際立った試合だった。私も子供の頃からプロレスを愛するひとりであったし、東京ドームに集まっていたのは、ほとんどがプロレスファンだった。
彼らはリアルファイトにおけるプロレスラーの立ち位置を目の当たりにし、呆然(ぼうぜん)とした。

プロレスが死んだ日―。

この一戦を境に、プロレスはリアルファイトを装うことから脱却し、肉体エンターテインメントへと方向性を明確化していったのである。

ヒクソンとの忘れられない会話がある。『PRIDE.1』が開催される約2ヵ月前、97年8月に、私は米国ロスアンジェルスに飛びヒクソンを取材した。

写真撮影を終えた後、ヒクソンの自宅のリビングルームでのインタビューで私は、こう尋ねた

高田の試合のビデオテープは見たか?

「見たよ」

ヒクソンはそう短く答えた。

見た感想は? そう問うと、少し間を置いて彼は言った。

「相手の試合の映像があれば当然、見るよ。でも一度しか見ない。一度見るのは、相手の雰囲気をつかむためだ。でももう一度見ようとは思わない。それ以上の情報は得たくないんだ。

だって、そうだろう。私がビデオテープで見たことを、当日の試合で相手が同じようにやってくるわけではない。
だから自分の中に相手のファイトイメージを固定させることは得策ではないんだ。
闘いにおいては、相手どうこうではない。どんな形で相手が仕掛けてこようとも、それに対応できることが大切。つまり、自分の闘いができれば勝てる。そのことを信じるのみだ」

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171018-00093326-playboyz-fight
10/18(水) 11:00配信

http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5e/aa/f522f07cf51e12b56a00076f741b0682.jpg
https://img.tokyo-sports.co.jp/wp-content/uploads/2016/12/b7fd983a685e0559835bbf884d39fee5-233x300.jpg

https://www.youtube.com/watch?v=jP2BMQiOEJw
高田延彦 vs ヒクソン・グレイシー 10・11 入場

https://www.youtube.com/watch?v=RwMO8oEyQHQ
衝撃の試合・・高田がヒクソンにても足も出ずタップアウト!!


前スレ              2017/10/18(水) 14:14
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