【野球】野村克則「ドラフト前に父・克也から『おまえじゃ無理だ』と忠告された激動の野球人生」通算.185 4本 17打点 1盗塁 222試合
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
プロ野球の秋は別れの季節だ。
2017年も多くの選手たちがユニフォームを脱いだ。引退表明後、みんなで見送る最後のマウンドや打席。
ある意味、予定調和の有終の美アングルと思いきや、過去の引退試合で強烈に印象に残っているのが、2006年10月1日に仙台で行われた楽天vsロッテの野村克則のケースである。
この日、現役最後の先発マスクを被った克則は、なんとロッテに1試合6盗塁を許すという悲惨な終わり方をする。
しかし、この結果に克則は逆に吹っ切れたという。あの「野村克也の息子」として過ごした、プロ野球人生はいかなるものだったか?
「おまえじゃ無理」父・克也の忠告
「おまえじゃ無理だ。苦労するのは目に見えてる。ちゃんとした会社に勤めて、安定したところに行け」
2011年末に出版された克則の自伝本『プロ失格』(日本文芸社)の中で、そのダメ出しの様子が詳しく書かれている。
明治大学4年時、「プロに行きたい」と当時ヤクルト監督を務めていた父・野村克也に相談した克則は、はっきりと忠告を受ける。
当時の克則は六大学リーグで首位打者や打点王も獲得したことがあるチームの主力選手だったが、捕手経験は大学2年秋からで守備面は不安視されていた。
それにしても実の父親から、そしてプロ野球の一流監督からプロ入り前に就活相談したら「おまえじゃ無理」と言われる悲劇。
それでも、やってみなければ分からないと父を説得。結局、克則は95年ドラフト会議でヤクルトから3位指名を受けることになる。
カツノリを悩ませた"問題"とは?
登録名は当時イチローが流行らせたカタカナ名ブームの流れで「カツノリ」。ドラフト後、初めて顔を合わせた野村監督は、「息子だからと言って、一切おまえを特別扱いしないからな。覚悟しておけ」と宣言する。
今日から、親父じゃなくボス。やってやるぞ。だが、プロ入りした克則はいきなり絶望する。
なぜなら、当時のヤクルトには全盛期バリバリの球界No.1キャッチャー古田敦也が絶対的正捕手として君臨していたからである。
さらに第2捕手にものちに日本ハムへ移籍してオールスター戦に出場する野口寿浩がいた。
73年生まれの克則と古田は8歳差、野口とはたったの2歳差。のんびり引退を待っていたら自分がクビになっちまう。追い打ちをかけるように、ある問題が克則を悩ます。
サッチー問題である。90年代中盤から後半にかけて、『笑っていいとも!』出演などお茶の間の人気毒舌タレントとなっていた野村沙知代。
ノムさんの妻にして、克則の母の強烈なキャラ。イースタンで打席に入ると、人もまばらな二軍戦で観客席からこんな野次が飛んだ。
「ピンチヒッター、サッチー!」
23歳の新社会人の男にとって、これはしんどいしマジ恥ずかしい。
父親が監督を務める球団で“親の七光り”と揶揄され、母親の存在を笑われ、マスコミからは「えこひいき」と面白おかしく書き立てられる。
だが、そんな辛い日々で克則を支えていたのは「俺は野村克也の息子である」というプライドだった。
http://www.excite.co.jp/News/90s/20171012/E1507712833312.html
90s チョベリー 2017年10月12日 11時00分
http://npb.jp/bis/players/91393882.html
成績 苦しむ原因も、苦しみから耐える術も偉大な親父の存在(長嶋一茂の自伝本『三流』でもほぼ同じ記述があったのは興味深い)。
三度、父親と同じユニフォームを着た野球人生
結局、99年までヤクルト在籍4年間で1軍計51試合出場、2000年には再び父が監督を務める阪神へ移籍することになる。
移籍初年度には43試合で打率.265、2本塁打と1軍の控え捕手として定着も、01年シーズン終了後に妻サッチーの脱税問題で野村監督が辞任。
明治大学の先輩でもある星野仙一新監督のチーム改革で出番を失った克則は04年に巨人へ。
移籍後1年で戦力外もトライアウトで2打席連続アーチを放ち、新球団の楽天へ。
すると、運命の皮肉か翌年には野村楽天が誕生することになる。
プロで三度、父親と同じユニフォームを着ることになった数奇な野球人生も06年限りで現役引退。
6盗塁を許した引退試合では野村監督から「11年間、よくがんばったな」と労いの言葉を贈られたという。
常に偉大な父の背中を追い続けた男のプロ野球人生は通算222試合、打率.185、4本、17打点。
引退翌年、楽天の二軍バッテリー担当育成コーチとなったシーズンに入団してきたのが、嶋基宏である。
自著ではその嶋を「コーチになって最初の教え子」と思い入れたっぷりに紹介してるが、
のちに解説者ノムさんがやたらと嶋に対して厳しいのも、その向こう側に息子・克則の姿を見ているから……というのは邪推しすぎだろうか。
最後に克則が小学校3年生の時に書いた作文を紹介して終わりにしよう。
「ぼくが大きくなったら、プロ野球せんしゅになります。巨人の王さんにまけた、お父さんのかたきをとって、王さんの記録をやぶります。ゆめホームラン900本。お父さん、ぼくに力をかしてください」 >>2
ノムがオーナーに嘆願してドラフト指名されたのに
契約金8000万はノムの監督年俸からの持ち出しだった 【悲報】元AKB48メンバー、ガチで障害者になっていた・・・(※画像あり)
https://goo.gl/miHAQB カツノリの試合を見にいって目に入ったのが稲葉。
編成に無理を言って2位で稲葉を指名。
よく野村本で擦られているネタの一つ。 カツノリだけじゃなく血の繋がらない息子たちもプロ入りしてたんだよな。鶴岡によって球界の傍流に追いやられたように語られるけど、南海を追われて以降も素人を他球団に押し込むくらいの影響力はあったんだよな。 なんだかんだ言われてたけど
いまだに球界に残ってるのは評価できる >当時の克則は六大学リーグで首位打者や打点王も獲得したことがあるチームの主力選手
捕手に拘らず打者としてなぜ育てなかったの? 中途半端に才能受け継ぐと大変だな
いっそプロが完全に無理な才能なら楽だったろうに 6大学で首位打者や打点王取った実績ある打撃型キャッチャーならほしがる
球団もいるわけで
全くのコネ入団ってわけでもなかったんだろ? >ドラフト後、初めて顔を合わせた野村監督は、「息子だからと言って、一切おまえを特別扱いしないからな。覚悟しておけ」と宣言する
実際はものすげえ特別扱いしなかったっけ、サッチーも一緒になって古田バッシングしてたし
だから古田は未だにノムさんのことが大嫌い。ドラフト時に片岡スカウトがメガネのキャッチャーはいらんと反対する野村を押しのけて
獲得したのに、著書では野村が獲得を進言したってエピソード捏造されて片岡も怒ってたってのもあって 注意された岩隈が言い返したらケンカ寸前になったんだよな。 ヤクルトと阪神では親父がいなくなると、出番がなくなってた。 >>13
( ´D`)ノ<コーチとしてはそこそこ優秀 悲しいとき〜
悲しいとき〜
プロ野球チップスのカードで2枚続けて野村克則が出たとき〜 それでも努力してプロ野球選手になったんだから立派だよ❗
親の金で遊び放題の原の息子より全然マシ 今はヤクルトのコーチしてんのかそれも1軍とか
こんな奴に教わる選手ってどんな気持ちなんだろ >>14
>中途半端に才能受け継ぐと大変だな
一茂もそうだったな とはいえ、一茂もカツノリも大学で結果残してプロに引っかかるぐらいの才能はあるからな。それだけでも十分すごいわ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています