当時、納谷氏は静岡市内に日本初となるサッカー専門のスポーツ店を経営。皮革製品の安い韓国でボールを製造し、輸入していた。

〈サッカーボールの中に覚せい剤を忍ばせ運んだ可能性もある〉などと糾弾されたものである

 78年7月8日に再び、麻薬取締法違反で逮捕され、翌79年2月にはとうとう懲役1年10月の実刑判決を食らったのだ。

 2度目に逮捕されて出所したのち、納谷氏は82年から生活の基盤をブラジルに移していた。

〈このまま静岡に居続けるとまた問題が起こる可能性があった。宣雄も環境を変えなければならないという自覚があった。国外に出るならば、大好きなサッカーの強い国がいい。宣雄がブラジルを選んだのは必然だった〉

 遠い異国の地でも、規格外の豪傑はすぐになじんでしまう。

 サッカー好きと、生来の商魂たくましさもマッチした。日本にブラジルサッカーの試合映像を売る販売窓口や、日本からのサッカー留学生をブラジルのクラブに紹介するエージェントとして、ビジネスを成功させたのだ。

 特に後者は、後述するがカズが脚光を浴びてブラジル留学の“広告塔”となったおかげで、繁盛したようである。

これマジ?