7月5日 日刊ゲンダイ オリックス元球団代表・井箟重慶 松永浩美はチームを引っ掻き回すから阪神に放出した

1992年12月1日の午前中、わたしは野田の阪神電鉄本社にいた。正午から梅田のホテル阪神でウエスタン・
リーグの会議があったため、その前に阪神の三好一彦球団社長を訪ねたのだ。目的は松永浩美のトレード交渉だった。
松永は当時、「史上最強のスイッチヒッター」の異名を取り、それまで7回、3割をマーク。走攻守と三拍子
そろった三塁手で、球団の看板選手でもあった。78年のドラフト外で阪急にテスト入団した苦労人。選手としての
実力や実績は申し分ないうえに、サシで話をするといいことを言う。「僕はファームで苦労した。例えば当時の移動は
電車でした。荷物を持って満員電車に乗るのは本当にしんどかった。だから僕は、ここから一日も早く抜け出して、
一軍に上がろうと思った。それが、いまはどうです? 二軍もバスで移動しているじゃないですか。あんなことじゃ、
上を目指そうという気になりませんよ」などと言われて、なるほどと思ったこともある。 
オリックスは4年前に親会社が替わったばかり。これから新しいチームをつくっていかなければならないのに、本当に
この選手がチームの中心にいていいのかとクビをひねりたくなるような言動が彼にはあった。若手の多くは彼を慕い、
「松永さん」と寄って行く。そんな若手に向かって、「おまえ、コーチの誰それな、あんなやつの話を聞くのは
やめておけ!」「なんでか分かるか? あのコーチの給料はこれだけだけど、おれはその何倍ももらっているんだぞ」
などと言っていた。若手にいい影響を与えてくれるならともかく、見ているとそうではない、むしろ、チームを
引っかき回す要因になる選手だと思った。今、売りに出せば高く売れるという計算も働いた。松永の放出は当時、
土井正三監督との確執が原因などといわれたが、そうではない。戦力ダウンを危惧する土井監督をこちらが説得した
のが実情だった。