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【感動ポルノ】『24時間テレビ』の季節に思う「かわいそうな人」支援という傲慢 [無断転載禁止]©2ch.net
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0001ニライカナイφ ★@無断転載は禁止
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2017/08/22(火) 07:48:01.69ID:CAP_USER9
今年も『24時間テレビ』の季節がやってきた。
日本を代表するというか、日本最大の超大型チャリティ番組なので、社会的な存在感も大きい。

24時間ランナーを誰が務めるかが毎年の大きな芸能ニュースになるし、夏になれば日テレがガンガン番宣をやる。
否が応でも番組の存在感は高まる。

だが、この番組の存在感が高まれば高まるほどに、僕は憂鬱な気分になる。
なぜ憂鬱になるかというと、日本社会の中でチャリティ(寄付)というものへの理解がいっこうに進んでいない――その現実を見せつけられるからである。

「チャリティへの無理解」とはなにか。
それは「かわいそうな人を救おう」という考え方だ。

そう言うと、「かわいそうな人を救って何が悪い?」と思う人も多いだろうが、そうではない。
社会貢献という視点から言えばそれは間違っている、と僕は考えている。
今回はそのことについて説明する。

● かわいいもの、かわいそうなものに 寄付が集まる現実

とは言っても、僕は別に『24時間テレビ』を批判したり、否定したりしたいわけではない。
この番組が日本の社会貢献シーンに果たしている役割は大きいし、39年間で365億円もの寄付を集めているのは立派な実績だ。

ここ数年は寄付金額も減少傾向にあるが、それでも毎年9〜10億円程度の寄付を集めている。
CSRだとか社会的責任だとかキレイごとを言っても、企業の評価は基本的に売上や経常利益で決まる。

それと同じで、社会貢献だとかチャリティだとか言っても、数字が重要だ。
寄付の文化がないと言われる日本で、夏になれば寄付の季節という「気分」をつくり出し、これだけの金額の寄付を集める『24時間テレビ』は、やはり立派だと思う。

ただし、視聴者の側、つまり『24時間テレビ』を見て寄付をする人たちには、もう少し理解を深めてほしいとも思う。
『24時間テレビ』については批判意見も多い。

昨年は、まるで『24時間テレビ』を批判しているかのような特番が、NHKのEテレで放送されて話題となった。
このEテレの番組『バリバラ』の中で紹介された「感動ポルノ」とは、まさに『24時間テレビ』という意見も多かった。

感動ポルノとは、「かわいそうな人を救うことで、自分が気持ち良くなること」であるが、『24時間テレビ』の視聴者や、この番組を見て寄付をする人たちには、こうした側面があることは否めないと思う。
まさに『24時間テレビ』は、「愛は、かわいそうな人たちを救う」番組でもあるのだ。

もちろん、かわいそうな人たちを救おうという感情が悪いわけではないし、そもそも寄付というものは、そうした要素がある。
寄付は、基本的に「かわいいもの」か「かわいそうなもの」に集まりやすい。

たとえば、途上国の少女支援のための寄付を集める場合、多くのNGOは「かわいい女の子」をキービジュアルに使う。
現地でたまたま撮影できた「奇跡の1枚」を使う場合もあるが、現地のモデルを使う場合もある。

「かわいそうな女の子たちの未来を築くために寄付をしよう」みたいなコピーと一緒に写っている少女は、プロのモデルだったりするのだ。
モデルではない場合でも、現地の少女たちの中から、かわいい子を選んで撮影する場合もある。
捨てられたペットの里親捜しも、かわいい子犬や子猫の写真のほうが効果的だ。

「かわいい」と並んで、あるいはそれ以上に効果的なのが「かわいそう」だ。
「かわいそう」は「かわいい」以上に、ストレートに「救ってあげたい」という感情を刺激する。

典型的な例が、幼い子どもの死にそうな写真、あるいは死体の写真だ。
一昨年の9月、トルコのリゾート地の海岸に、シリア難民の幼い少年の溺死体が打ち上げられた。
この少年の写真は世界のメディアに配信され、世界中に大きな衝撃を与えた。

シリア難民問題は、それまでも大きな社会問題としてメディアで取り上げられていたが、このような「かわいそうな」写真が配信されると、社会的な関心はさらに高まる。社会的な関心が高まると、支援活動をしているNGOにも寄付が集まる。
そして、この場合も幼い子どものほうが効果的だ。
同じ難民でも、こ汚いオッサンより、幼い子どものほうが、人々の「かわいそう」をかき立てるのは当然だ。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170822-00139370-diamond-soci

※続きます
0002ニライカナイφ ★@無断転載は禁止
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2017/08/22(火) 07:49:32.10ID:CAP_USER9
※続きです

NGOからすれば、「かわいそう」は寄付等の支援を集めるための大きな要因になるが、「かわいい」に関しても、その奥には「こんなかわいい少女が学校に行けないのはかわいそう」とか「12歳で強制的に結婚させられるのはかわいそう」という感情が働いたりするので、かわいそうな人たちを救いたいという意味では、「かわいい」も「かわいそう」も同じなのだ。
結局のところ寄付集めとは、「かわいそうな人たちを救うことで、自分が気持ち良くなる」という意味で、やはり感動ポルノ商売なのである。

● かわいそうな人を救うことと、 社会問題を解決することの違い

もちろん僕は、感動ポルノを否定するわけではない。
『24時間テレビ』を見てもお分かりの通り、それで多額の寄付が集まり、支援に役立つのだから悪いはずもない。
しかし、多くの人に理解してほしいのは、「かわいそうな人たちを救う」ことと、「社会課題を解決する」ことは、必ずしもイコールではないということだ。

たとえば、いまの日本社会では「子どもの貧困」が大きな社会問題になっている。
どんな社会でも、子どもは未来を担う存在だが、いまの日本では、子どもの7人に1人が貧困だと言われている。

このような子どもたちは、貧困故に十分な栄養が取れないとか、満足な教育を受けることができないという課題を抱えている。
そして、そのことが貧困のサイクルから抜け出すことを阻む。子どもの貧困は、日本でも大きな社会問題なのだ。

この問題解決に取り組むNPOが増えている。
必要な栄養を提供するために、「子ども食堂」を運営したり、貧困の子どもたちを対象とした学習塾を開いたりしている。

僕はこのような取り組みを批判はしないし、無用だとも思わない。
むしろもっと増えればいいと思うし、僕自身もアイデアがあって企画を進めている。

それは、貧困層の子どもたちを東大に進学させるというプロジェクトだ。
実は、すでに関西では、貧困の子どもたちを京大に進学させるという京大プロジェクトが立ち上がっていて、そのNPOとコラボして東京でも同様のプロジェクトを立ち上げようと考えている。

ただ、自分でも思うのだが、このような食事支援、教育支援も、貧困の子どもたちへの本質的な支援にはならない。
なぜなら子どもの貧困とは、親の貧困の問題だからだ。

親が貧困だから、子どもも貧困になってしまう――このあたりまえのことを解決しなければ、貧困の子どもたちをいくら支援しても、それは対症療法にしかならない。
逆に言えば、親の貧困を解決すれば、子どもの貧困は自動的に解決する。

つまり、子どもの貧困を解決するためには、親の雇用を作ることが不可欠。
とくに、シングルマザーの半数以上が貧困層と言われる状況では、シングルマザーの雇用を生み出し、まともに子どもを育てられるだけの給料を得られる仕事をつくり出す必要がある。
その雇用を生み出すのは、企業の仕事だ。

日本で貧困層が増えているのは、日本という国自体が貧しくなっているからであって、それを解決するためには、新しい成長企業を増やしていくしかない。
つまり子どもの貧困問題の根本的な解決策は、起業支援なのである。

しかし、子どもの貧困問題に関心がある人も、なかなか起業支援までは考えが至らない。
シングルマザーや障がい者雇用に熱心な企業をテレビなどが紹介することもあるが、社会問題の解決の文脈で、起業支援の担い手であるインキュベーターやアクセラレーターを紹介するメディアはほとんどない。
なぜなら、貧困の子どもたちや障がい者の人たちは「かわいそうな人たち」だが、インキュベーターやアクセラレーターはかわいそうではないからだ。

しかし、社会貢献の文脈においても、かわいそうな人たちへの施しよりも、起業支援のほうがインパクトが大きいことは証明されている。
たとえば、途上国におけるマイクロファイナンスは、貧しい女性たちに資金を提供するモデルで、資金を借りた女性たちはそれで商売を始め(起業して)、収入を得て貧困から脱出する。

そして、自分でお金を稼ぐようになった女性は、子どもを学校に行かせる。
途上国では、男の子は学校に行けても、女の子は通わせてもらえないという国や地域はまだまだ多いが、母親に収入があると、女の子も学校に通えるようになる。
このモデルの有効性は十分に実証されているのだが、その効果は途上国だけでなく、日本のような経済先進国でも同じだ。

※続きます
0004ニライカナイφ ★@無断転載は禁止
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2017/08/22(火) 07:49:43.78ID:CAP_USER9
※続きです

● 施しよりも大切な、 尊厳を持って生きること

雇用によってもたらされるものは、単に収入が増えて貧困から脱出できるということだけではない。
貧困によって奪われた、人としての「尊厳」を取り戻すことができる。

だが、かわいそうな人たちへの「施し」は、尊厳を与えない。
想像してみてほしいが、頑張って働いても月に10万円くらいしか稼げないシングルマザーがいて、収入が少ないので子どもに満足な食事も与えることができないとする。

そんな貧困親子の元に、どこかのNPOが食料や食事を届けたとしよう。
すると、その親子は空腹を満たすことができる。

それはそれでいいことだ。
しかしこの場合、母親の心理に何が起きるか。
それは2種類ある。

ひとつは、誰かから施しを受けることを当たり前のように受け入れてしまうケース。
もうひとつは、施しを受けることに恥を感じ、そんな自分を惨めだと感じるケースだ。

生活保護を拒否して餓死してしまう人がいるように、日本人の場合、恥を感じる人も多いと思うが、いずれにしても空腹は満たされても、心は満たされない。
人間は働いて、自分で稼ぐことで自立する。そのことに誇りを持つ。

途上国の貧困女性も、先進国の障がい者も、仕事を得て自分で稼ぎ、自立することで人としての尊厳を獲得する。
それは貧困のシングルマザーも同じだ。子どもたちが健全に育つためには、親が尊厳を持って生きていることが大切。
親の尊厳が奪われたままだと、子どもはたとえ物質的に満たされたとしても、心は満たされない。

だから「仕事を作る」ことが必要なのだが、子どもの貧困という社会課題解決のためには、「仕事をつくる人をつくる」ということも重要だ。
その意味で、インキュベーターやアクセラレーターこそが子どもたちの貧困を解決する人たちである、と言えるのだ。

もちろん社会課題に向き合う時には、対症療法も必要ではある。
現実に目の前に困っている人たちがいる時には、対症療法が不可欠な場合も多い。

地震や津波などの大規模災害支援においても、緊急支援、復旧支援、復興支援とさまざまなフェーズがあるように、社会課題にも「支援のフェーズ」というものがある。
目の前にお腹を空かせた子どもたちがいれば、食事を与えることはやはり必要だ。

ただ、このような対症療法はわかりやすいし見えやすいので、寄付などの社会的支援も受けやすいが、「仕事をつくる人をつくる」みたいな話は、話が遠すぎて理解する人が少ないことだ。
企業のCSRでさえも対症療法的な取り組みが多い中、「仕事をつくる人をつくる」といったことに取り組む企業は少ない。
しかし、それでは課題の根本的な解決にはならないのだ。

日本人はもう、「愛は、かわいそうな人を救う」という発想を捨てたほうがいいと思う。
そもそも世の中には、「かわいそうな人」などいない。かわいそうな人とは、誰かが誰かを「かわいそう」と思った瞬間に生まれるものだ。

障がい者だろうが、貧困の子どもたちだろうが、難民だろうが、かわいそうな人ではない。
ただ社会生活に支障があったり、お金がなかったりで、困っているだけの人たちなのだ。

そんな困っているだけの人たちを「かわいそう」と思うのは、そう思う側の傲慢だといえる。
それは、相手の人としての尊厳を傷つけることでもある。

そして、「かわいそうな人を救いたい」と思う“感情”が優先され、対症療法的な支援ばかりに関心がいってしまう。
しかし、「困っていることをどうすれば解決できるか」という視点に立てば、もっとロジカルな考え方ができるようになるし、「何が効果的か、大きなインパクトを与えられるか」ということが見えるようになる。

そうした意味で、僕はもう「かわいそうな人を救う」という考え方をやめたほうがいいと思う。
『24時間テレビ』をチラ見しながら、毎年そのことを考えてしまう。

※以上です
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2017/08/22(火) 07:51:03.19ID:yknUmRQu0
ジャニーズ事務所を支援してるだけでしょ
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2017/08/22(火) 07:51:58.75ID:L0quWGfk0
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