しかし無理解な大衆からは感謝の拍手のかわ
りに、しばしば乱暴な、実に憎悪にみちたことばを浴びせかけられるのである。こうした民衆の
忘恩がある程度まで高まったときには、唯一の手段が残る。すなわちもう一度政党に磨きが
かけられる。綱領は改善される必要があり、委員会は新たに息を吹きかえし、そしてまたはじめ
からペテンがくりかえされる。われわれ人間の度しがたい愚かさをみれば、その効果について驚
くにはあたらない。新聞にあやつられ、新しい魅力的な綱領に目をくらまされて、「ブルジョア」
たると「プロレタリア」たるとにかかわらずその無定見な選挙人は、もとどおり同じ厩舎にもど
り、そしてもとのペテン師を選んでしまうのだ。

 こうして生産階級の代表者や候補者はふたたび議会の毛虫に変じ、そして四年後にまたもやき
らびやかな蝶に変身するために、国家生活の演技にとまって、たらふく食いあらすのだ。

 この全体の経緯を、その冷厳な現実において眺め、このようなぎまんがいつもくりかえされる
のを見なければならなことほど、われわれを憂うつにするものはない。

 マルクシズムの組織だった勢力との闘争を闘い抜くような力が、かかる精神的培養基からブル
ジョア陣営に生まれてこないのは、とうぜんである。

アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」