大田泰示悲惨史

1年目
キャンプインから1週間後、原監督による数時間に及ぶマンツーマン打撃指導。打撃フォームを大改造。
以降、紅白戦・オープン戦にそのフォームで臨むも打率は1割に満たずファーム行き。
シーズンイン後、ファームでも成績低迷するも、二軍打撃コーチとともに高校時代に近い形にフォーム修正を施し
最終的には高卒1年目にしてファームで17本塁打。大器の片りんを見せる。

2年目
キャンプにて、原監督が再びマンツーマン指導しフォーム改造。成績が低迷する。
ファームでシーズンイン後、原監督の指導とは正反対の形に打撃修正すると短期間でホームランを量産し、打率も大幅アップ。

好調さを買われ1軍昇格。和田、杉内というホークス左エース相手に
2試合にスタメン出場するも無安打に終わると
「俺の教えた通りの打撃フォームじゃない」と原監督が激怒し即2軍落ち。
高卒2年目でファームにて最終的には20本塁打を記録する活躍を見せたが
1軍出場はこの2試合のみで、あとは一切1軍に呼ばれず。

3年目
原監督の指導による軸回転スイングを1年間通すことを強制されると、ファームでのホームラン数は6本と激減。
長打力は鳴りを潜めるも、打率は低く三振は多く(打率、三振率ともに.250程度)、盗塁数だけが大幅にアップするという
訳のわからない選手に。

また、原監督がかねてから大田のサード守備指導役に指名していた古城により、サード守備が壊滅的な状況に。
高校時代は投手を務めることもあった選手が捕球だけではなく、スローイングまでが酷いものとなり
シーズン途中から外野へコンバート。指導役に指名されていた古城は1軍出場機会を増やす。

4年目
前年の秋季キャンプから原監督が「来年はレフト大田でいく」と事あるごとに明言し
秋季キャンプではレフト守備を鍛えられ、自主トレでもレフトを想定し練習を積む。
も、春季キャンプイン直前に原監督が「大田はセンターでいく」と新聞辞令。
いきなり春季キャンプから経験のないセンターを守ることに。

打撃は原監督の指導による軸回転スイングを続け、オープン戦では打撃絶不調も初の開幕1軍入り。
しかし、4月上旬を過ぎると2軍落ち。
以降、2軍での成績は前年より僅かに打率と長打力を上げ、三振率は4打数に1回から5打数に1回と僅かに下げ
9月に1軍再昇格。プロ初の猛打賞や、プロ初本塁打の翌日に2試合連続となるホームラン、
オフのアジアウインターリーグでも打力を発揮し、翌年の活躍に期待を持たせることに。

5年目
2年連続で開幕1軍入り! するも、5月頭には2軍落ちし、シーズンのほとんどを2軍で過ごす。
原監督直伝の軸回転スイング効果により4年連続のファーム三振王。
秋には自転車で転倒し怪我を負い、さらに信頼を失うことに。

6年目
開幕2軍。5月に1軍昇格も10日ほどで再び2軍へ。
8月に再昇格すると、守備代走要員として出場機会を得る存在に。

7年目
チーム事情から春から一時4番を任され、好調を維持。
そこそこの打率を残すも打点と長打が少ないとの理由から
スタメンを外されることが増え、過去最多の60試合に出場するも打席数は140弱にとどまる。

8年目
高橋新監督のもと心機一転。1番打者として出場機会を増やすも起用法は固定されることなく
シーズン途中からは完全に干された状態に。62試合出場で約120打席。
シーズンオフにはトレードで日本ハムへ。