光格天皇以来、幕府に頭をおさえつけられて京都で貧乏な生活をしていた朝廷は
幕府の権威の低下に乗じて復権を企て、それに長州や水戸藩なども一枚噛んでいた
わけなのだが、黒船来航とコレラ大流行でもはや孝明天皇の権威も地に落ちてしまった。
だから創価学会、天理教、金光教などの新興宗教が雨後の竹の子の如く出現した。
天皇の権威低下は、長州のテロリストには好都合だった。彼らは「尊皇」でなければ、
「攘夷」でもない。単に「天皇の権威」を利用して日本国を徳川から簒奪したゴロツキ
に過ぎなかった。伊藤博文は孝明天皇を刺殺、岩倉具視は睦仁皇太子を毒殺し、
長州の片田舎に居た満州人を「明治天皇」に偽装させたわけだ。だから睦仁の婚約者
だった美子とは夫婦関係はない偽装結婚で、だから生前から「皇后」と呼ばれることも
なかった。大正天皇の生母は柳原愛子だが、明治十年の西南戦争の二年後に出産している。
この西南戦争では西郷隆盛がいわゆる「西郷札」を乱発し、戦後はその回収に政府は大わらわ、
緊縮財政で松方デフレになってしまった。没落した旗本たちは娘を身売りせざるえず、
宮城=皇居では毎晩乱交パーティがくり広げられていたという。その際に明治天皇のお手付き
だった柳原愛子は、土佐の田中光顕の子を身籠った。これが後の大正天皇である嘉仁だった。
しかるに、孝明天皇と明治天皇と大正天皇と昭和天皇はまったくの赤の他人であり、
テロリスト伊藤博文が自分の悪行を隠すために「万世一系」などという笑止千万な嘘を捏造したのだ。

幸ちゃんは明仁は単なる知恵おくれかと思っていたが、直接やりとりして救いようのない
人間の屑であると認識した。明仁は「長引く不況や少子高齢化で国民生活が疲弊しているのに、
何か国民に言うことはないか」と問われて「いや、それよりも戦争の記憶の伝承を」とかほざいたんだろ。
だったら貞明皇太后はどうなんだ? 既に昭和20年1月の御前会議で裕仁天皇、三笠宮、秩父宮などが
食卓を囲んで「このままでは日本は必ず負ける。早く白旗を上げたほうがいい」という意見で一致
していたのに、貞明皇太后は「それはだめだ。神国不滅だ。自分がお祈りすれば必ずアメリカに勝てる」
などと豪語したという。東京大空襲で皇居も延焼し、さらに米軍機から機銃掃射を受けて貞明皇太后は
「死ぬかと思った。やっと国民と一体になれた」と言ったそうじゃないか。裕仁天皇は母親に逆らえなかった
ので戦争が長引き、多くの人命と財産が失われた。貞明皇太后は昭和26年の主権回復前に急死している
が、アメリカが暗殺したのだろうね。キーセンの最期としては適当なのかも知れないけど、戦地で死んだり
満州で悲惨な目に遭った国民はたまったもんじゃないよ。明仁はバカだから、長年の念願だったパラオへ行って
みて、歓迎されるどころか憎まれていることにやっと気づいたようだね。早く死ねばいいよ。