というのは、きみ自身がまったく正しく説明したように、僧侶は本来の真理を知らないわけだが、たとえ
知っていたところで、人に説いてはならないからだ。しょせん、真の哲学というものはありうるが、真の
宗教など、まったくありえないものだ。ぼくが「真」というのは、言葉の真実・本来の意味でいうので、
きみがやったように、ただ文章の綾で比喩的にいうのではない。きみがいうような意味なら、どんな比喩
だって、程度の差こそあれ、真だろうからね。ところで、真理のなかで最も重要な、最高かつ最も神聖な
真理が、虚偽を混じえてしかあらわれないということ、それどころか、比較的強力な作用を人間に及ぼす
虚偽から真理が力を借りて、啓示として、虚偽によって導きいれられなければならないということは、こ
の世にあまねく行きわたっている解きがたいからみ合い、すなわち幸と不幸、正直と不正、善意と悪意、
高潔と卑劣といったものが混ざりあっていることと完全に符合しているわけだ。われわれは、最高の真理が
虚偽とからんでいるというこの事実を、道徳的世界の花押とみることもできよう。ところでわれわれは、
人類がいつかは、一方では真の哲学を創造し、他方ではこれを受けいれることのできるような、成熟と
形成の時点に達するだろうという希望を捨てたくはないのだ。だって「単純は真理の印章」というではな
いか。裸の真理はきわめて単純で理解しやすいものでなくちゃならん。神話や寓話(嘘八百)なんか混ぜ
なくても――つまり宗教という覆面をかぶせないで、その真の姿のままで万人に伝えなくちゃいけないんだ。