種族のうちに客観化される意思のかの委託は、恋に
おちいった男の意識のなかでは、この女性といっしょになることが彼にとって無限の幸福であるという
期待の仮面をかぶって現われる。恋愛の熱が最高度に達すると、この幻影はますますその輝きを増し、
もしそれを達成することができなければ、生きること自体がいっさいの魅力を失い、いまやなんの喜び
もなく、味気のない、楽しみのないもののように思われるため、生きていくことがいやになり、死の恐
怖さえ消えうせ、ときとしてみずからすすんで命を縮めることがある。このような人間の場合には彼の
意思が種族の意思の渦のなかに巻きこまれたのであって、すなわち、種族の意思が個体の意思よりはる
かに優勢となったのであって、もしその人間が前者の資格で働くことができなければ、後者の資格で働
くことを拒否するのである。この場合は個体は、種族の意思が或る一定の対象にたいして集中する無限
のあこがれを受け入れる容器としてはあまりにも弱いのである。

 そこでこの場合には結末は自殺か、ときとしては恋人どうしの心中である。ただし自然が命を救うた
めに人を狂気にし、この狂気がそのヴェールでかの絶望的な状態の自覚を覆うなら、別であるが。――
じじつまた年ごとにあらゆるこの種の事件がいくつか生じており、いま述べたことの真実性を証明して
いるのである。

 しかしながら、満たされない恋の激情が悲劇的な結果に終わるだけではなく、満たされた場合も幸福
よりは不幸をまねく場合のほうが多い。というのは、この激情の要求は、当事者のその他の事情と一致
せず、それにもとづいて立てられた生活設計を破壊するため、その人間の個人的な幸福を破滅させるほ
どにこれと衝突するからである。いやそれどころか、恋愛は外的な事情と矛盾するだけではなく、自分
自身の個性とすら矛盾することがある。それは、性的な関係は別とすれば、恋する者自身が憎み、軽蔑
し、いやそれどころかおぞ気のする者にさえ恋が向けられることがあるからである。しかし種族の意思
は個体の意思よりもはるかに強く、そのため、恋する男は自分がきらっている性質にはすべて眼をつむ
り、すべてを見逃し、すべてを見そこなって、恋の相手といつまでも腐れ縁をつづける。かの妄想なる
ものがこれほど完全に彼を盲目にしているのであって、この妄想は、種族の意思が満足させられるやい
なや消失し、そのあとに残るのは、にくにくしい連れ合いだけである。非常に分別のある、いや、人並
み以上にすぐれた人物ががみがみ女や悪妻といっしょになっているのを見ると、どうして彼らがこういう女を
選んだのか理解に苦しむことがしばしばあるが、これもこのことから説明がつく。だから古人も愛の神
を盲目に描いたのである。それどころか、恋におちいった男はそのために自分が一生苦しまねばならな
い花嫁の気質や性格の耐えがたい欠点を明らかに認識し痛切に感じておりながら、それでも諦めきれな
いことがある。