>>481
ロシア兵もあれだが中国人や朝鮮人も日本人に酷い事してたんだぞ
ロシア兵の校内侵入から通化事件に発展した

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして
旧通運会社の社宅などの建物の各部屋に押し込まれた[6]。
専員公署では8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められた[59]。
拘束された日本人は、あまりの狭さに身動きが一切とれず、
大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされた。
抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、
そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害された。
殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされた。
足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった[6]。
三日間に渡って山中の倉庫に収容された中西隆も同様の体験をしている。
中西を始めとする90人余りの日本人は数日間に渡って立ったまますし詰め状態で監禁されたため、
発狂者が出るにいたった[60]。朝鮮人兵士達は黙らせるよう怒鳴るとともに窓際の6人を射殺し[60]、
「お前たちはそのうち銃殺だ。ぱっと散る同期の桜じゃないか。
36年の恨みを晴らしてやろう」と言い放った[60]。
蜂起計画に関与しなかった一般市民を含めて、民間人2千人(数千人とも)近くが殺された[6]。

虐殺
拘束から5日後に部屋から引き出されると、
朝鮮人民義勇軍の兵士たちに棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺された。
撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどした。
その後、中国共産党軍による拷問と尋問が行われ、
凍結した渾江(鴨緑江の支流)の上に引き出されて虐殺が行われた。
川岸に一人ずつ並べられた日本人が銃殺されて行く姿は皇弟妃浩によっても目撃されている[61]。
渾江の下流の桓仁では、中国共産党軍の兵器工場で働いていた
中村良一が連日に渡って上流から流れてくる遺体を目撃している[60]