記事は本人が病床で書いたとされる日記を引用していた。

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服して
いる。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

1945年8月の敗戦で日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。GHQは新憲法制定や教育改革など民主化を
推し進めたが、当の日本人はそれどころではなかった。敗戦の年は冷夏と水害も重なり米が記録的な凶作となった。旧植民地からの食糧
輸入も途絶え、数百万の人々が海外から引き揚げてきた。そのため翌年には全国で未曽有の食糧不足が発生する。戦
時中から政府は食糧管理法で米などの配給を導入したが、敗戦直後は遅配や欠配が相次いだ。

では人々はどうやって生きていたか。正規の配給以外のルートで食べ物を買いつける、いわゆる闇市場である。大都市の住民
はすし詰めの列車で地方の農家を回り、わずかばかりの着物などを米や野菜と交換した。タケノコの皮を一枚ずつ剥ぐような「タケノコ生活」で
、むろん食管法違反だ。見つかった場合は逮捕され食糧も押収、こうして捕まった者を裁くのが良忠の仕事だった。


山口良忠は1913年、佐賀県白石町で生まれた。彼の生涯を追った伝記『われ判事の職にあり』(山形道文著)によると、京都大学法学部に進んだ良忠は、1938
年に司法試験に合格、横浜や甲府の勤務を経て大戦中に東京地裁に配属された。そして戦後の1946年10月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」
「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」(山形の著書が引用した矩子の手記)