雪駄の達也:銀座編
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
初めてスレ立てするので不具合などあったらご指摘くださいな。 第1話 ■達也■ うぉ! Bカンデビューだぜ!
やべぇ遅れた……野瀬さんにドヤされちまうよ。
英國屋の角を曲がり、地下への古びた石造りの階段をダダダッと駆け下りる。
俺は都内にある高校の3年にこの春なったばかりだ。ちょとだけやさぐれてる、ちょと
だけだぞ。今日は俺たち応援団の気合いが足りないってんで、みっちり体教(体育教官室
)でガチンコ喰らったもんで遅れちまった。15分の遅刻だぁ。
「オハヨゴザイマッス!」
「遅いぞ、達也」
「スンマセン野瀬さん、大車輪で掃除しますっ!」
「おう。ところで達也。オマエ今日、Bカン入れ」
「へ?」
「細谷が風邪ひいて休むって言ってきたんだ。代わりにオマエが入れ」
「俺? いいんですか? ……ハイッ! しっかりやらせてもらいますっ!」
ココは銀座でもリーマンの懐に優しいちょいと穴場のバーだ。俺は高校生だってことを
内緒にしてバイトさせてもらっている。俺が17歳だってことを知ってるのはこの店のオー
ナーと野瀬さんだけだ。俺がココでバイトさせてもらうことになったイキサツは……まぁ、
また別の話しだ。いつか機会があったらまた聞いてくれ。ココに通ってくるお客さんは筋
がいい。毎日いろんな勉強させていただいている。あぁ、学校の勉強もしてるぞ? 一応
進学校だしな。 ココにはカウンターが2つあって、フロア奥にあるメインのAカンは野瀬さん、入り口
そばにあるサブのBカンは細谷さんが仕切ってる。俺はいつもは野瀬さんのアシストでA
カンに入ってボケ役をやってる。これがまぁ毎日刺激たっぷりなわけ。他の先輩を差し置
いてカウンターに入らせてもらっているのは、ひとえに野瀬さんのお陰。入店当時は当然
「雑」と「パシリ」ばっかりだったけど、3ヶ月しっかりと働いたのを先輩方が認めてく
れたんだ。また、野瀬さんは俺が将来ジャーナリストになりたいってのを知っていたこと
もあって、「いろんな人間を肌で感じるのは裏方ではなくカウンターが一番だ」と、フロ
アマネージャーの金森さんを説得してくれたんだ。
「達也、今日はクリップやめておけ」と野瀬さんが言う。
「了解ですっ!」
「任せたぞ」
「ハイッ!」(……でも、ほんとにいいのか?)
地下へと降りる入り口脇にアンドンを出し、掃除やら棚のセットやら開店準備を大急ぎ
で済ませると、バックヤードでいつにも増して念入りに身支度をした。グリスで髪をサイ
ドバックに撫でつけ、ダブルカフスのワイシャツに着替えると、とっておきのカフスボタ
ンをはめる。「ケンメリ・スカイライン」のシンボル、白い傘がデザインされたカフスボ
タンだ。いつもはカフスを文房具のクリップで留めている。もちろんウケ狙いなのだけれ
ど、Bカン任されるとなるとボケてはいられない。野瀬さんも細谷さんもスマートで鳴ら
している。野瀬さんは渋好み、細谷さんは軽妙な話術が持ち味だ。俺は細谷さんの話術も
大好きだが、目指せ野瀬さん! なのである。ベストを着、ボウタイをもう一度確認……
ドキドキするぜ。 Bカンに入ると、さっき自分でセットしたばかりのカウンター内を改めて指差し確認す
る。数々の酒類のボトル、グラス、メジャーカップ、バースプーン、ストレーナー、アイ
スピック、ペティナイフ、アイス、ダスター……オッケーだ。任されたのが嬉しくて、す
でに綺麗なカウンターをまた磨く。
フロアマネージャーの金森さんが開店の合図を送ってきた。ドアにかけてあるプレート
がクルリと「Open」に変わる。ふと野瀬さんを見ると、眼で「しっかりやれ」とサインが
飛んできた。俺は初めてのお客さんを迎える準備に、両頬をパシパシ叩き大きく深呼吸を
した。 第2話 ■翔子■ 春なのにな
街が私の気持ちに寄り添うように黄昏れている。雲のない西の空に夕焼けの名残りの赤
色がうっすらと残っていた。黄昏(たそがれ)というのは、元々「誰そ彼」が語源だって
あの人が言ってたっけ。向こうからやってくる人影が判別しにくくて、「あれは誰だろう
か?」となる夕暮れ時のことだと……まったく昔の人は……こういうのを風流って言うん
だろう。ダメだな……夕暮れの街を歩いているだけでもあの人が顔を出す。もう出てこな
くていいのに。
今朝までは、昨日までと同じ日常が積み重なって行くと思っていた。というより、そう
信じていたかっただけかもしれない。ここしばらくあの人の態度が以前とは違ってきてい
ると感じていたから。
私は5年前の春に、日本橋にある中堅どころの企業に入ることができた。ちょっとエッ
ジの効いたアンテナの高い企業で、憧れの職種につくことができて私の身体中にはヤル気
が溢れていた。でも浮わついた学生気分と実社会のギャップは明らかに存在していて、小
さいけれど挫折や後悔もいくつか味わった。もちろんそれらをすべて豪快に吹き飛ばす達
成感で震えたこともある。
入社当初、同期は一人ずつ別のプロジェクトに就いた。私は3年先輩がチームリーダー
を務めているプロジェクトに参加させていただき、そのチームでは本当に様々な眼を啓い
てもらうことができた。毎日毎日、自分が成長していることを実感し、充実していた。
「独りで悩むな」がリーダーの口癖で、ホウレンソウ(報告・連絡・相談)を叩き込まれ、
共有が成果に繋がることを体感させてくれた。学生時代はスポーツサークルにどっぷり浸
かり、夏は海、冬は山で鍛えられていて体力だけは自信があった私は、とにかくむしゃぶ
りついていった。ひたすらに。 新入りの私を、厳しくそして時に優しく支えてくれるリーダーに私が惹かれて行ったの
はごく自然な流れだったと思う。入社2年めのヴァレンタインに思い切ってリーダーに正
面からぶつかり、受け止めてもらうことができた。毎日幸せだったな。仕事がどんなに厳
しくても、クライアントから理不尽なオーダーが飛び込んできても、あの人の眼差しに包
まれると踏ん張ることができた。一緒にさまざまな壁を越えている感覚が溢れていた。
あの人は腕時計の文字盤をいつも内側に向けていた。「キーボードを叩いてる時でもク
ルマを運転している時でも、そのまま時間を読めるからね」と言っていたっけ。キーボー
ドの上を滑るあの人の指はまるで魔法のようなんだ。
珍しく定時に会社を出た私は、そのまま空虚な部屋に戻る気にはなれなかった。焦点が
合わない眼でゆっくりと、日本橋から春先の浮かれた銀座通りへ。華やかなウィンドウの
連なりの中を歩いていると、なんとなく自棄になっている自分を慰めたくなったのかな。
これまでだったら、『あの人との将来のためにガマンガマン』していたのに、気がついた
ら新しいお財布とイヤリング、スカーフのペーパーバッグを抱えていた。
4丁目交差点を渡り、三愛と鳩居堂を眺めながらなんとなく右に曲がってみゆき通りに
入る。
(あちゃぁ……英國屋だ) いつの間にか私はあの人との想い出を歩いていたらしい。去年のあの人のお誕生日、昇
進祝いを兼ねてジャケットをここでプレゼントしたんだった。
(ふぅ。。。)
ため息をついた私は、気を取り直して英國屋の正面を避けるように手前の路地に折れた。
すぐ右手になんとなくふうわりと温かみを感じるアンドンがある。『トリスバー 銀座6
丁目バッカス』と書いてあった。
(今日くらいいいよね?)
普段の私には想像もできないけれど、バーってところに一人で入ってみることにした。
古いビルの石造りの階段を降りて行く。 第3話 ■達也■ Moscow Mule
「いらっしゃいませ」金森さんの声がフロアに響く。野瀬さん目当ての常連さんでない限
り、最初のお客さんはBカンが受け持つことになっている。今日の口開けのお客さんは女
性の一見さん。金森さんが「こちらへどうぞ」と俺の正面にご案内。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」おしぼりとチャームを出しながら、待ち合わせか
どうかを確かめる。
「えぇ、お買い物に来たんだけど、なんだかこのまま帰るのがもったいなくて」
「今日は買い物日よりですね。いいお天気で」
「もう店先は夏物ね」
「いいお買い物できました?」
「バッチシ!」
滑り出しは好調だ。その女性は20代後半くらいかな。ちょいとボーイッシュな感じのす
るアクティヴお姉さまってとこ。
「何にしましょう?」
「そうねぇ、景気づけにシャキッとしたいかな……ジンかウォッカベースで美味しいので
きる?」
「モスコウミュールはいかがです?」半分ドキドキしながら聞いてみる。難しいカクテル
ではないが、実をいうとまだ覚えたてなのだ。
「それって私好き?」
すげぇ返しだな。初めて会ったのに好きも嫌いも判るわけないじゃんね。こいつぁ負け
らんないやね。 「ハイッ! もちろんお好きですっ!」
「じゃあ、それね」
「ハイ」
「どういうカクテルなの?」
「ミュールって言ってもサンダルじゃないですよ。『モスクワのラバ』っていう意味なん
ですけれど、ラバの後ろ足で蹴っ飛ばされたくらい効くっていう名前のカクテルです。で
も飲みやすいですよ」
「えぇ? そんな強いの飲ませてどうする気ぃ?」
「ご安心を。最初っからそんな無茶しませんから」
俺は冷凍庫からスタリーチナヤを抜き出す。普段は50度のスミノフ・ブルーを使うのだ
けれど、せっかくだからスタリーチナヤの40度だ。何がせっかくなのかは聞かないでくれ。
まぁアメリカのスミノフよりロシア製のスタリーチナヤが気分だったってくらいのもんだ。
ちょと度数も弱いしね。キンキンに冷やしておいたバカラのタンブラーを出すと、氷を手
際よくピックで砕き入れる。メジャーカップで1.5オンスのスタリーチナヤをトロットロッ
と注いで、4つにカットしたライムの一つを思い切り絞りきる。そしてウィルキンソンの
ジンジャーエール、辛口のヤツだ。野瀬さんは、本来はジンジャービアってのを使うんだ
けれど、なかなか手に入らないのでこれにしているって言ってた。カナダドライじゃダメ
なんだってさ。野瀬さんのそういう拘泥わりが俺は好きだ。バースプーンで軽やかに10回
ステアしてカットライムを落とす。ミラーコースターをお姉さまの前にすっと置くと、静
かに俺の記念すべきファーストカクテル、モスコウミュールをサーヴした。
「どうぞ」
「わぁ、綺麗」
琥珀色のカクテルがコースターの鏡面に反射して輝いている。
コクリとお姉さまの喉が動く。 「おぉ! 爽快! コレコレ、こういうのが飲みたかったんだぁ。美味しぃ」
(ぃよっしゃぁ!)俺は心の中で飛び上がったぜ。いや、マジで。ついでに俺の口まで滑
らかになっちまったようだ。
「お客さんは夏でも冬でもボード乗ってたりしません?」
「え? 何で判ンの?」
「潮焼けした髪に雪焼けの肌が、見るからに健康そうですから」
「へぇ」
「染めた髪じゃないですよね?」
「良く判るねぇ……若いのに。ところで、コレ美味しい。切れ味いいね」
「お客さんみたいですよね」
「どういう意味? それ」
「明るくて、ストレートで、優柔不断が嫌いで、白黒ハッキリ……でしょ?」
「ぅお! よっく判るねぇ」
野瀬さんに鍛えられたお客さん観察眼だ。だいたい当たらずとも遠からじ。今日はドン
ピシャだったラシイ。いいじゃんいいじゃん、俺のカウンターデビュー万歳じゃん。
お姉さまは綺麗な飲み方をする。背筋がすっと伸びていて、タンブラーをつまむように
優しく持って口に運ぶ。眼を閉じてコクリ。美味しそうに飲むなぁ。店内には柔らかくB
GMが流れている。今はサンタナの『哀愁のヨーロッパ』。金森さんの選曲だ。
「ねぇ君。踊ろうよ」
「へ?」
「ちょっと出てらっしゃいよ」
「い、いや、それはマズイっすよ」(おいおいおい……) 「いいじゃん、他にお客居ないんだし」
「でも……」
「ごちゃごちゃ言ってないで男なら出てくるっ!」
「ぅわ……はいぃ……」(金森さん助けて……)
マジでストレート、剛速球。しょうがない、お相手するしかないか。腹をくくってカウ
ンターをくぐった。金森さんに視線を飛ばすと眉がピクリと動いた。あれはニヤリとして
やがるピクリだ。
「ウハ! 何それ! びっちり決めてんのに、なんでアンタ雪駄履いてんの!」
だって、カウンターに居る分には見えねぇし。外出るなんて思ってもいなかったし。野
瀬さんもカフスのクリップは注意したけど、雪駄はダメって言って無かったし……。
「イイ! イイ! あんたオッカシイねぇ。さぁ踊るよ」
踊るよったってコレ、チークじゃんね……ぐはぁ……なんちゅう強引な……俺、まだ……。
「効くねぇ、モスコウミュール。ちょっと気に入っちゃったぁ。アンタもね、アハハハハ!」
こんな豪快なチークは初めてだ。
「楽しいねぇ。もっとギュゥって! ホラ、ギュゥって!」
「はいぃ……」俺は雪駄をペタペタ鳴らしながら、モスコウミュールの効き味に驚いてい
た。
「次行くよ次っ! ゲロンパ行こうか!」
「えっ! ……」
ラバに蹴っ飛ばされたのは俺の方だったラシイ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています