これについて、図書「日本人の海外活動に関する歴史的調査」は、
次のように指摘している。

「2600万人の朝鮮人に最も悪い感情を抱かせたのは、米の供出と人の供出である。
…1937年に支那事変を起こした時、官民は皆、米は問題ないと言っていた。
なぜなら…この日本内地の4島と朝鮮、台湾を合わせれば最も少ない時は800万石、
多い時は1500万石を持ってきた。これを朝鮮銀行券、台湾銀行券という紙で買った。
特に、金は必要なかった。」

日本の収奪者が支払い保証のない管理貨幣である「朝鮮銀行券」で
米を買ったということは、彼ら自身が言ったように
朝鮮の米をただで奪ったことを示している。

米収奪の強盗さながらの性格は、
米「供出」制度を実施していた時期にさらに集中的にあらわれた。
当時、日本の収奪者は、朝鮮の農民から生産費の9%にもならない安値で
米を奪い取った。その管理貨幣さえも「戦時貯金」「愛国公債」の名目で取り込んだ。

朝鮮の農民が自分の家族のように大事にしていた牛を
194万3000余頭も連れて行って食肉処理してしまった。

日帝の農村略奪行為によって、朝鮮の農村は慢性的な飢餓地帯になったし、
春の端境期は「定例行事」のように訪れた。
こうして、我が国で「ポリコゲ」(端境期)という言葉が生まれ、
朝鮮の人々は飢えと病魔にさいなまれたあげく、
懐かしい故郷を捨てて生きる術を求めて異国への流浪の道に立たなければならなかった。