薩摩半島から南へ約60キロの海に浮かぶ黒島(鹿児島県三島村)。
周囲20.1km、人口わずか174人の島だ。
太平洋戦争末期の1945年、沖縄へ向かう特攻機が、この島の近海などに相次いで不時着した。島民らは救出した隊員を熱心に看病し、食料を提供した。
このことがきっかけで、今も島民と元隊員らの交流が続く。当時11歳だった大里地区の日高康雄さん(83)は、当時のことを鮮明に覚えている。隊員との交流、島民に犠牲者が出た米軍機の襲撃。「経験を語り継ぐことが自分の使命」と力を込める



2017年5月13日。前夜の豪雨がうそのように、空は晴れわたった。
この日、島で14回目の「特攻平和祈念祭」が開かれる。開始予定時刻の3時間前、日高さんの姿は会場の黒島平和公園にあった。
目的は、公園内にある「平和の鐘」を鳴らすこと。日高さんはここを毎日一人で訪れている。

戦時中の隊員らとの交流は楽しい思い出だ。そして今も、元隊員やその家族との交流は続いている。
一方で、島民をはじめ、戦争で犠牲になった人のことを考えると、胸が痛む。

当時の日本は「国のため」などの“大義名分”があった。この“大義名分”こそが最も危険なものではないか。
“大義名分”があれば、戦争を起こせる。戦争が起きると犠牲者が必ず出る。負けると多くのものを失うし、勝ったところで恨みを買い、いつか必ずしっぺ返しをくう。
戦争は、起こした時点で“負け”なのだ。日高さんは、こう考えている。

世界中を見渡すと、今もさまざまな“大義名分”がまかり通っている。このままでは、あの悲劇が再び世界のどこかで起きてしまうのではないか。
黒島に生まれた者として、当時の経験を語り継ぐことが、自分の使命なのだーー。

鐘を叩く。心地よい音が島中に鳴り響いた。日高さんは、こうべを垂れ、じっと目を閉じた。

https://news.yahoo.co.jp/byline/tanakashinji/20170514-00070931