『新唐書』

>明年(*663年)、使者、蝦夷人とともに朝す朝廷に参る。
>蝦夷もまた海島の中に居る。其の使者、髭の長さ四尺許り。
>矢を首にはさみ、人をしてひさごを載せて数十歩に立たしめ、射てあたらざる無し。

蝦夷の特徴として、@ひげが濃いということともに、A弓矢に長じていることを強調している。


髭面多毛な集団が、道南と津軽海峡を行き来し、アイヌと和人の間で交易を行っていた

>東北の大海の中央に「蝦夷ヵ千島」があり「日ノ本」「唐子」「渡党」の3類の蝦夷が群居する
>「日ノ本」と「唐子」は外国に連なり 風貌は夜叉のようであり禽獣・魚肉を食として農耕を行わない そして 言葉はまったく通じない
>「渡党」は和国の人に似て 言葉も大半は通じるが 髭面多毛な人 津軽海峡を往来して交易を行っていたという
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=1054536

津軽藩の初代藩主、津軽為信 アイヌと和人の合いの子にしか見えない
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c5/Tugaru_Tamenobu.jpg


津軽のイヨマンテ

青森・秋田・岩手には、今日でも和井内(わいない)、生保内(おぼない)、今別(いまべつ)など、おびただしいアイヌ語地名がある。奥戸(オコッペ=興部)、シレトコ、シラヌカなどよく知られた北海道の地名と同じものもある。
東北アイヌの境遇は、18世紀になると変化する。藩財政の窮乏化に伴って、アイヌの内地人化、農民化の施策がとられるようになった。東北アイヌは、急速に和人化し、民族的特徴を失っていった。

三厩宇鉄村を旅した京都の医師、橘南谿は、当時の風俗を「東遊記」に遺している。
「当地は6、70年前まではエゾ村であったが、今は風俗が変わって日本人の通りになっている。しかし近所の村とは縁組をせず、顔立ちも異なって眉が一文字につながっている女子などもいる。毎年近くの今別村の寺に集まり『蝦夷踊り』を行っている」と述べており、18世紀末にはアイヌの名残を留めながらも和人の世界に同化してしまった様子が描かれている。

陸奥国津軽郡中絵図 津軽半島の\村 = アイヌの地
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/image/0220205100/0220205100100020/258.jpg