>>570
捕鯨船は、当時尚澤山残って居た鯨を目的としたのであるが、
水は勿論、野菜や豚の類を半ば掠奪的に補給することを普通としたらしい。
交易船は、それ以上乱暴であった。
真珠、海参、白檀、コプラ等を集めて、それを支那で絹や茶に代え、ヨーロッパに持って帰って
巨利を博するのであったが、その大半は暴力によって土人から掠奪し去るのであった。
島は無数で、土人は単純だから、こうした遣りかたも容易に行詰ることは無かったが、
他の船が乱暴をしたあととは知らず近づいた船が、土人から復讐されるようなことも有った。
それで「兇暴な土人の蛮風」に対する懲戒が、土人の十倍の兇暴さを以て行われた。

次で奴隷狩りが現われた。
初は南米の植民地に売りこむため、後には濠洲女皇州の甘蔗園等の需要に応ずるため、
船が島々を巡航して土人を捕えた。