目も喉も痛い…それでも撮ったヘリ墜落現場 「これが沖縄」残る記憶と証拠写真 新川美千代さん「私の見た壁」展を開催

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 変わらない空 沖国大ヘリ墜落15年(1)

 車を止めて歩いて行くと、目が痛くなった。続いて喉。そして舌。医師に「化学物質過敏症」と診断され、火災現場や新築物件には近づかないよう言われていた。
それでも新川美千代さん=浦添市沢岻=は2004年8月13日、米軍のCH53D大型輸送ヘリが墜落したと知って沖縄国際大学に向かっていた。ピリピリと広がる痛み。「自分は炭鉱のカナリアと同じだな」と思った。

 当時、自宅は西原町上原の高台にあった。玄関ドアを開けると青い海が「1センチくらい」見えるが、あの日は真っ黒い煙が立ち上っていたのを覚えている。昼食の片付けをしようとしていた時、事故を知らせるテロップがテレビ画面に出た。現場を訪れたのは墜落から約3時間後。
消火剤かガソリンか、機体そのものが焼けているのか、何ともいえない臭いが沖国大に近づくほど強くなった。

 集まっていたのは消防や警察、メディア、学生だけではなかった。近所の住民、学校帰りの親子連れ、営業途中のサラリーマン。携帯電話で撮影する人がいれば、近くのコンビニで買ったインスタントカメラを構える人もいた。

 「みんな、使命感とかじゃなくて自然に撮っていました」と新川さん。米兵はレンズを遮ろうとしたが、集まった全員の目はふさげなかった。「一人一人が『これが沖縄だ』という証拠写真を残したんです」

 新川さん自身もデジタルカメラを向けた。「33歳で亡くなった父方の親戚の話を、幼い頃から何度も聞いていたからかもしれない」

 1966年、離陸に失敗したKC135空中給油機がコザ市(現沖縄市)の県道に墜落。親戚は乗用車を運転していて巻き込まれたという。
写真があまり残っていないためか、世間の記憶が薄いと感じてきた。「沖国大は、現場もカメラもある。絶対に記録しないといけないと思いました」

 壊れた沖国大の本館が解体された事故翌年、新川さんは当時撮影された写真を集めた展示「私の見た壁」を始めた。開催は今年で15年目。
写真は今も寄せられ続けており、会場に入り切らないものが自宅に千点ほどあるという。

 「あの時、規制線の外から証拠写真を撮った全員が事故の被害者になり得ました。今もいつ何時、誰が巻き込まれるか分からない。
その想像力を持ってほしいから、本当はやめてしまいたい写真展だけどやめられないんです」(中部報道部・平島夏実)

 米軍普天間飛行場所属のCH53D大型輸送ヘリコプターが宜野湾市の沖縄国際大学に墜落・炎上してから13日で15年がたつ。当時を記憶する人々に、今日までどう向き合ってきたのか聞いた。