沖縄人「家の馬小屋に逃げてきた母子から味噌と引き換えにもらった家宝の三線を返したい」
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沖縄県名護市辺野古に住む島袋健勇さん(82)が、沖縄戦終結後の1945年7〜8月ごろに預かった三線の持ち主を探している。若い母親と幼い男の子2人が島袋家の馬小屋に避難していた時に、母親が持っていた三線とみそを「物々交換」したという。
島袋さんは「戦火の中で大事そうに持っていたので、恐らく家宝ではなかったか。関係者が生きていたら三線を返したい」と話している。(北部報道部・又吉嘉例)
三線のさおはクロキ製で、カラクリ(糸巻き)の穴が円ではなくて変形している。交換当時は皮が張っていた部分に漢文が書かれていた。皮は米軍製のパラシュートの布で代用するなど何度か張り直され、現在は蛇皮で覆われている。
島袋さんは当時8歳。終戦前は辺野古も激しい爆撃を受け、焼け野原となっていた。「爆弾が55発も落ちたらしい。国民学校では避難訓練ばかりしていたから、すでに日本は負けると分かっていたんじゃないか。勝つと思えば避難なんて必要ないはず」と指摘する。
島袋家は瓦ぶきで、集落で唯一屋根が残った家だった。家の中では親せきの5〜6家族が身を寄せ合い、軒先や馬小屋は避難してきた人に提供した。馬小屋の若い母親が連れていた男の子は、4〜5歳くらいと2〜3歳くらい。「2人とも歩ける年齢で、下の子はよちよち歩きだった」と振り返る。
母子が滞在したのは1週間程度だという。「肌身離さず持っていた三線だったけれど、子どもたちの命を助けるためには手放さざるを得なかったんじゃないか。みそを付けたら木の葉っぱでも何でも食べられるだろうし…」と推測する。
関係者探しを決めたきっかけは家宝の250年以上前の三線の修復と豊年祭での演奏を伝える本紙記事(9月24日付21面)だった。島袋さんは「三線もあの母子の宝物だったかもしれない。誰もこの話を分からなくなってしまう前に見つけたい」と情報提供を呼び掛けている。
情報提供は沖縄タイムス北部報道部まで。 1996年に5年後から7年後までの全面返還で日米合意が成立してるんだから
左翼が邪魔さえしなけりゃ普天間の危険性なんて本来とっくに取り除かれてるはずなんだよ現時点で
それ以後に起こった事故は全部左翼が移設を遅らせてることが原因なんだよ 食べ物持ってるとこういう時
凄まじいシャークトレードできるんだな ウッカリ名乗り出ると以後永遠に「俺んちがお前の家を救ってやった」と言われるんだろ >>11
終戦直後の農民のえげつなさは中々のもんだよ
国中から金やモノを集めてぶくぶく太って、預金が急増してる
その結果封鎖されてるんだどさw 戦中に母親と幼な子2人、か…
行く末を察してしまうわな >>4
自分の寿命も短くなってきて、心残りを清算したい気持ちが強くなったんちゃう 最後の善行の心算か
結果良ければすべてよしってのは人生に通用せんぞ >>2
>勝つと思えば避難なんて必要ないはず」と指摘する
勝つと思ってても避難するだろ
先勝国は死人が出ないと思ってるのか?これだから老人は駄目なんだよ
戦争を分かってないな 探している
→消息は辺野古付近で途絶えた
→見つかるまでは工事を控えるべきだ
→じじいが辺野古で南無阿弥陀仏
→こんな悲しい話のある辺野古に基地なんて!
→基地反対!基地反対!
じゃね? 当時は仕方なかったのかもしれんが、もっと早くに返してやれただろうにな
母親は当然亡くなってるだろうし子供も4〜5歳じゃ覚えていないだろう その人もう亡くなってるんじゃね?
子供が覚えてればいいけど 朝日ならともかく、ここかぁ……
偏向報道しすぎてるからでっち上げかと思うわ >>19
戦争経験者に未経験者のお前が何言ってるんだ
クッソ低脳すぎるからもう死ねよ 味噌?ただでやるわけにはいかないよ
こんな感じでしょ あーそれオレのだわ、埼玉生まれだけど
はい、この話終わり 土に埋めてBEGIN呼んで三線の花をみんなで歌えばいいさぁ〜 「へっへっへっ!女!この味噌が欲しくば、
そこに抱えている三線を寄越すんだな!」
…で、今になって後悔してる、と。 >>25
ハブからそんな皮とれねえよ。
三線は、ニシキヘビの皮。 でも三線って沖縄の家ではとても大切にしてる物だろ。しかもそんな時期にも持って歩いてた訳だから。
戦時中、三線を持って逃げられない場合は胴を外して棹だけにして埋めて隠したという。
(胴はどうでもよくて、棹が重要)
そんな三線を取り上げるんだから、このジジイも相当ゲスだな。
死期が迫って罪悪感芽生えやがったか ゲス野郎が年を取って良心の呵責に襲われたか。
極楽に行けると思うなよ。 補修して今まで残してるのもすげーな
俺は祖父からもらったギブソン速攻売ったぞw >>47
あ、ほんとだw
ゲスかったのは爺さんの親かw
すまんかった(^^;) >>44
もしそうでも当時8歳といっているしこの人の親か祖父母の話じゃないの
彼らが亡くなったから遅まきながら本当の持ち主を探し始めたって感じでしょ
それにしたってあと10年や20年は早く動けたはずだと思うけどね 米軍に攻撃されたとき三線の棹を隠したっていう話がいっぱいあるからなあ 戦時中の農家はマジで糞だぞ。
ソースは俺の爺さん婆さん。
もう20年前に亡くなったが、散々大根と高価な着物交換したとか聴かされたわ。
子供ながらにこいつら糞だなとおもた。 >>55
でも着物食えねぇしな…戦時中じゃ食物の価値めちゃくちゃ高そう。 >>55
平時に食料や農地を買わずに着物買ってたやつが悪いじゃんどう考えても なんか作物作ってる途中でも赤紙で徴兵されて、農民風情みたいな感じでバカにされてるような扱いで他の国民よりキツイ仕事とか場所行かされたとかJAの新聞で読んだことある 疎開民から巻き上げたことを今になって後悔し始めたか。
食料品と引き換えにかなりエゲツないことをやっていたのは聞いているわ。
大戦のアメリカ兵が旧日本軍の遺品を返還したがる心理と同じだろう。
件の親子はもう生きてないだろうし、その三線抱えたまま地獄に行けば良いんじゃないのかな。 島袋家は瓦ぶきで、集落で唯一屋根が残った家だった。家の中では親せきの5〜6家族が身を寄せ合い、軒先や馬小屋は避難してきた人に提供した。
集落が壊滅して救済も望めない状況で綺麗な布キレや良い音が鳴るガラクタに何の価値がある?
見ず知らずの家族を一週間住まわせてわずかな食料しか渡さなかったのが利己的で悪徳だと? ある晩、最後の斬り込み作戦に出撃する近くの壕の兵隊さん達が、
自分達はもう要らないから皆んなで分けなさいって、
軍の食糧と水全部置いて行ってくれたおかげで、
壕に隠れてた集落の人達が全員飢餓から救われたって話を沖縄の祖母から聞いた事がある
今生の別れ、せめてものお礼にと、住人が奏でた三線の音に涙を流す兵隊さんもいたそうで・・・ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています