セカイ系の誰よりきっと
で、今回の話題は秋葉原連続殺傷事件について、だ。この事件のポイントはずばり犯人・加藤の
「凡庸さ」だ。加藤はいわゆる「もう救いのないようなコミュニケーション不全症候群」
でもなければ、自意識をこじらせるだけこじらせてしまった「末期症状」患者でもない。
ワイドショーがオタク犯罪に仕立てあげたくても無理が出るくらい「オタク」と呼ぶにもウスい。
要は、加藤は「どこにでもいる、不器用な奴」なのであって、この事件が「怖い」のは、
加藤くらい不器用な人間は今の日本社会にごまんといて、その程度の人間がここまで煮詰まってしまう、
という現実なのだ。格差?もちろんこれは深刻でなんとかしなきゃいけないが。でも本当にそれが
加藤の暴走の原因だろうか。問題はもっと複雑で、根が深い。加藤くらいの「ちょっと不器用な奴」
でもすぐに煮詰まってしまう世界に、今の日本社会はなってしまっているのだ。
じゃあ、どうすれば「煮詰まりにくい世の中」はできるのか。ヒントは加藤がモバイル掲示板に残した
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」という走り書きにある。この一行はいろんな意味で象徴的だ。
なんで「彼女がいない」から「人生崩壊」なのか。加藤は「彼女をつくる」くらいしか自己実現の
方法を信じられず(なんてマッチョな発想だろう)、それが出来ないから絶望したのだ。なぜか?
それは今の世の中は個人の生を公共性が意味づけないからだ。
たとえば「仕事」。(略)ほかにも「正しい国家のために」みたいな物語で自己正当化を
図るとか(略)。じゃあ「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」という加藤的な世界観
をどう破壊するか。かわりに台頭しているのが、個人的な(ローカルな)人間関係をアイデン
ティティというフィクションを確保するというやり方だ。その中でも、「恋愛」は手っ取り早い
ものとして一番人気だ。だから滝本竜彦の小説の主人公たちみたいに、社会的自己実現は
信じられないけど自分より弱いトラウマ少女を救う、みたいなストーリーは信じられる、
みたいなマッチョ全開のセカイに突入しちゃうわけだ。そして、加藤もその類の人間である。
http://www.sbcr.jp/bisista/mail/art.asp?newsid=3325