関が原の「永久戦犯」 宇喜多秀家がなぜ殺されなかったのか
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関ヶ原の戦いで29歳の若さながら西軍の副大将をつとめ、最前線で奮戦した「備前中納言」宇喜多秀家。
敗戦後は八丈島に流罪となり、84歳まで生きた。
石田三成や小西行長など西軍諸将が処刑されていく中で、“最大級の戦犯”であるはずの秀家は「なぜ」殺されなかったのか!?
◆“脇役”だった宇喜多秀家が注目を集める
岡山城をつくった戦国大名・宇喜多秀家と妻の豪姫役に選ばれた男女を先頭に、武者行列が入城していく。
岡山市で毎年行われる「秋の桃太郎祭り」(10月7〜9日)の一貫として10月8日、「宇喜多秀家☆フェス」が
岡山城天守閣前広場を中心に行われた。今年で9回目となり、年々来場者が増えているという。
宇喜多秀家といえば、岡山57万石の太守で五大老の一人とはいえ、関ケ原で西軍に属した石田三成、大谷吉継、
島津義弘などと比べて知名度はかなり低い。歴史小説やドラマなどでも非常にマイナーな存在だ。今年公開された、
岡田准一さんが石田三成役で主演をつとめる映画『関ケ原』でも、宇喜多秀家はほんの一瞬しか登場しない。
ところがここ最近、その宇喜多秀家に注目が集まっているのだという。
https://www.excite.co.jp/News/column_g/20171110/Spa_20171110_01427719.html
宇喜多秀家(岡山城蔵)
https://s.eximg.jp/exnews/feed/Spa/Spa_20171110_01427719_1.jpg それ言うと毛利輝元とか
吉川の功績と引き換えったって本来許されない 落ち武者狩りにあったはずが
なぜかそいつにかくまわれたり
島津領まで逃げるのに徳川系の奴まで協力したという痕跡があったり
不思議な人。 殺す必要がない程度の人材
豊臣秀頼は殺すしかなかった稀有の人材
要は、脅威じゃなかったので放逐されて放って置かれた 助命嘆願がいっぱい来てたからじゃね?
人は良くて好かれる人だったらしいじゃん。父親は暗殺マンなのに。 親父が鬼畜過ぎた反動で息子が出涸らしのただのお人好しの人畜無害だったから放置されただけ >>12
そら秀吉に秀頼の事を頼むと言われ
弟守るのに理由など要りますか?と
即答してる人だし こいつはともかく、島津を始末しなかったのは大失態www >>20
子供のころから性格よくて、皆に好かれたみたいだね 名目上は豊臣の為の戦だったわけだし一応は秀頼の義理の兄だった人を
簡単には殺せんだろ いちおう 秀吉の縁戚だったからだろ
関が原の頃は家康は将軍じゃないし 秀頼の臣下の立場だったかんな 基地外アサシン宇喜多直家の子が お人好しの宇喜多秀家
温厚で家臣の纏め役の宇喜多忠家の子が キチガイの宇喜多詮家(坂崎直盛)
どこかで子供が入れ替わったと見える >>20
叔父は兄の暗殺を恐れて下に鎖帷子を着ていたと言うのに… 直家は自分の家臣に対しては人格者だったから言われるほどの極悪人でもない 親父さんもお袋さんも美男美女で、本人も超絶美形なんだろ?
肖像画の方も、いつ書かれたのかは知らんが、今に通じる顔立ちだし。
土方写真に通じるモノを感じる 遠泳能力が凄いと聞いた
ちょくちょく本州に遊びに出かけてたらしい 毛利島津を処断しなかったことが幕末に響き倒幕をもたらしてしまった >>39
それは小早川、フリじゃなくてガチのアル中池沼だけど >>7
なぜか勘違いしてるやつが多いが、
関ヶ原の西軍総大将は毛利輝元だからな >>34
犬猿の仲だった
従兄弟は助けた姫さんに袖にされる
不細工さんやで >>45
大坂城に引き篭もってたら勘違いもされるよ… >>8 津軽藩なんて三成の息子と娘を引き取って御咎め無しだしな。 >>48
津軽って辺境wwって感じでおとがめなしだったんじゃないか? 戦った宇喜多秀家はまだマシ
一番ショボいのは関ヶ原で戦わずに何が何だか分からない内に領地取り上げられた長曽我部盛親 福島正則の家臣が流刑先の島に立ち寄ったとき、正則用に積んでいた酒をねだられた
「誰だお前は」「宇喜多金吾の成れの果てよ」
処罰覚悟で一樽と食料を差し出して、上司に報告したら、正則から「でかした」と金一封賜ったとか 父ちゃんはイかれてたけど家臣には優しく慕われてたから
息子もそこをみて良い子に成長したんじゃないかな >>21
島津が徳川領からどんだけ離れてると思ってんだバカチンが 今の研究だと後詰めの毛利を叩く為に家康が本隊を率いて出陣
それにビビった毛利が勝手に講和してそれを知らずに救援に来た三成やらをこれ幸いと包囲殲滅にしたって事らしいね 宇喜多って前田と繋がりがあるから命だけは助けられたんだよ。
でも八丈島に流されて不便だったみたい。 宇喜多って人望もあったんだよな。
いわゆる人気者の良い奴 現代人の俺らと違って当時の生活水準なら、そこまで不便感じんだろう 島で酒が手に入らなかったのかどうかはわからんが
確か福島正則あたりに酒樽とか貰ってたね 絶対大河ドラマで取り上げてもらいたい八丈島メインで ただでさえ秀吉の猶子で、しかも秀吉の養女(前田豪)を妻に娶ってるからでしょ
羽柴(豊臣)姓も持ってる
関が原当時は家康は豊臣臣下だったからね 軽率だけど憎めないキャライメージだったんじゃないかな >>37
毛利島津じゃなければほかのところがやった。江戸幕府はいろいろ行き詰っていた
同情するところもあるが基本的には西国雄藩があってよかった。 おとなしく大阪城出てただの公家になってれば
秀頼も殺されなかったろうよ 西軍が互角に戦えたのは宇喜多勢が強かったからなんだよな 直家も暗殺とか謀略ばっかりじゃなく普通に戦ってればもっと領土拡大できたかもしれないな 石田小西安国寺みたいにすぐ捕まってたら殺されたでしょ
2年ぐらい逃亡生活し、島津や前田の助命運動
これが大きかったと
長束は籠城し騙されて殺された例など
関ヶ原は戦後すぐに捕らえれたのは殺されたが
増田長盛や長宗我部とか何とか家来に守られ生きてたのは殺されなかった >>70
直家の領土拡大は謀略ありきだと思うぞ
戦って切り取るのが常の時代に、
ほぼ国力減らさずに領土を物にするってなかなかできない芸当 >>37
まあ毛利島津は戦国末だと最強大名の一角だし滅ぼそうとしたらそれこそ死にものぐるいで戦って徳川方も尋常じゃない被害出て仕方ないでしょ
実際秀吉の1回目の九州征伐は島津にボコボコにされてるし 西軍最大勢力でまともに戦った数少ない武将
戦犯は毛利輝元と吉川広家 >>21
島津に遠征するのにどれだけ金がかかると思っているんだ?しかも遠征したすきを 関ヶ原の時点では豊臣家の内紛で別に西軍=豊臣ってわけじゃない 背後の小早川の裏切りで宇喜多総崩れは仕方ない。
前田家、島津家に助命嘆願されてるんだから断れんだろ。 >>52
父ちゃんは貧乏領主時代は家臣たちと囲炉裏を囲んで
家臣達と同じ量だけ飯を食って家臣たちと共に飢えに耐えてたそうだしな
意外と身内には優しいんだよ
内に秘めた悪逆無道な知恵はすべて外に向けられた
実の弟の忠家は兄の悪逆無道な知恵を知って常に油断せず恐れていたけどね >>78
島津を敵に回せば時期的に立花も敵に回すことになる、そうなれば加藤や黒田、小早川も離反しかねない
永遠に続くもぐら叩きになりかねないだろ そもそも、吉川も小早川も毛利の分家レベルだろ?
なんで制御できなかったの? >>82
ガチのイケメンな上に性格が良く人気者で勇気があって戦も強い
モテモテだったんだろうなきっと >>57
前田家と家臣の花房家から仕送りガンガン来てた。
秀家は島で新たなオナゴと暮らし始め子供もでき、その子孫に対しても幕末まで前田家と花房家が仕送りしてたって。 家系捏造名人の家康は足利家が憧れ
喜連川とか宇喜多の優遇は明らか >>86
そう思うけど、黒田中心に島津攻撃の準備してたらしいけど。 毛利輝元だけ許すのもおさまりが悪いから、宇喜多秀家は流罪にしたんだろ。
日本の政治は今も昔もバランス感覚だよ。 嫁である豪姫の生みの親は利家とまつ
宇喜多秀家が処分された時に豪姫が殉死した場合軍門に降り利家なきとは言え前田家を敵に回すのは得策ではないと考えるのも当然だろう それ言ったら真田親子だって、ド田舎送りとか生温かったよな。
大権現様は寛大だったよな。 泳遊王事宇喜多秀家って言うほど戦犯か?挑発にホイホイ乗った直江兼続やなーんもしねえで親戚筋がバカスカ裏切った毛利のが余程だろ >>92
黒田が島津討伐→立花、加藤、島津をを引き込み黒田が九州掌握→徳川最大の敵になる
>>87
そもそも本家も含めて毛利勢に豊臣への忠義があると思ったのが間違いだわな
西側で豊臣にガチで忠義を感じてたのなんてそれこそ石田、宇喜多、立花くらいで他の連中からしたら豊臣なんてかつての敵だし、仕切ってる石田は嫌われもんだし宇喜多は頑張ってるけど、島津、立花、毛利を纏める器じゃない 何で吉川広家が悪いんだよ。
吉川広家は直江兼続よりも賢いよ
どっちが勝つかわかってたからね 島津は過大評価されすぎ
次の代がアレなんだから天下なんてどうあがいても無理 >>96
おまえらツマらんものを有難がっとるのお
よほどまともな神さんがおらんのやろ >>63
関ヶ原敗戦
↓
伊吹山(滋賀県米原市)に隠れる
↓
落ち武者狩りしてた矢野重昌見つかるも矢野をたらしこむ
↓
矢野の手助けで大坂、前田屋敷に居た妻子に再開
↓
その後、京都太秦に潜伏
↓
京都所司代の奥平信昌に見つかるも無事逃走
|※同じく京都に潜伏していた安国寺恵瓊は捕縛され斬首
↓
島津義弘を頼り薩摩藩に落ち延びる
↓
島津家が徳川に降伏した為、徳川へ引き渡される
|※島津家と前田家の助命嘆願
↓
八丈島へ流罪になる
※公式な八丈島流人第一号 >>37
ノブ「だから敵は皆殺しにしろと竹千代に言っておいたのに…」 >>49
2代めは徳川本陣そばにいた説
旗印が関ヶ原の絵にあるとか
あと若い時に、徳川に影響力のあるエロいお坊さんに師事した。
つまり津軽の政治力は半端ねえ >>102
悪久こと島津忠恒も言うほど無能じゃ無いだろ、子供作りまくって権力掌握しつつ薩摩藩の礎造った男だぞ >>105
そりゃ五大老だし、親父はなんだかんだ宇喜多家の最大版図を
築いた傑物だし、ひいおじいちゃんは室町幕府も絶賛した名将だし >>105
実質総大将だから
ただ朝鮮出兵で自分を差し置いて大活躍した立花、島津とは馬が合わなかったっぽいよね
特に同年代の立花のことは嫌ってそう >>106
多くの街道で指名手配されてるだろうによくもまああちこちへ逃げてたな >>105
石田大谷は豊臣家の秘書みたいなもんだからなあ 負けて無一文になったのは宇喜多と長宗我部だけだっけ >>115
奄美琉球朝鮮から見たら鬼や悪魔の一族だよな確かに 八丈島流刑後は事実上、島の王となり罪人を統率、治安の良い状態にして徳川家から感謝されている
温暖な気候と島で採れる果実に恵まれ84歳まで生きた
統治の秘訣は女が極端に少なかった流刑地で男同士の性愛を認めたことにあると語り伝えられ、
同島は現在もゲイに寛容な地として知られる >>69
公方と言うより、今川家と同じく高家じゃね?
書籍によっては家康さんは豊臣家存続方針だったし >>120
お前そこでそんな書き込みしてたら鞭打ち死刑になるぞ 本当は江戸時代中期ぐらいに許されてたけど、それが島に届かなかったから明治まで島にいたんだっけ? >>126
ν速限定なのか?テレビでも歴史物はいっぱいある >>113
島津義弘とはそこそこ上手くいってたんじゃないかなあ。
関が原に至るまでの三成のやり方に、秀家と義弘二人で三成に反対しまくってた。 >>124
八丈島へは加賀藩から1年おきに米やら援助物資を送ってた
あと流刑に関しては10年くらいで特赦が出てる >>122
戦国宇喜多の一族っていう宇喜多末裔が書いた本があるから、それで大河推しするだろうね、大都会岡山。 >>124
いったん東京に出てきたけど居心地悪くて帰っちゃった、ての何かで読んだ >>127
ホームであるこの板でだからいいんだよ
他メディアからの見聞より頭に良く入る >>125
結束させるための3本の矢。
結束させないために、ほうりこまれた、(承諾せざるを得なかった)小早川秀秋だとおもってた。 >>136
元就が偉大すぎたのかね
武田といい2代目まで優秀とは限らない 忍者コマンドで暗殺できる武将
姉小路、宇喜多、北畠 前田家の婿 豪姫の夫 島津の庇護下にあった為島津前田からの助命嘆願 家康お気に入り井伊直政が仲介したから >>31
宇喜多直家の親や叔父、従兄弟は皆んな良い人だけど
戦国時代では欠点で殺されたり没落した
目前で身内を謀殺された直家だけが鬼になって再興させた
本来、宇喜多家は温厚で実直な性格 むしろ関ヶ原で一番ガチでやりやったんじゃないの?
大谷吉継より影がうすいってことはないだろう >>138
2代目は隆元早死にしちゃったが
内政に力発揮した
徳川秀忠の上位互換みたいな人 >>21
いざとなったら沖縄へ逃げて海賊化して朱印船貿易邪魔したるわw
このブラフが効いたらしい
実際島津征伐直前に何者かに朱印船撃沈されてる 関ヶ原の合戦後の主な全国大名石高ランキング
※徳川・豊臣は除く
1. 前田利長(加賀/金沢) 119.5
2. 結城秀康(越前/北ノ庄)67.0
3. 伊達政宗(陸奥/仙台) 60.5
4. 蒲生秀行(陸奥/会津) 60.0
5. 最上義光(出羽/山形) 57.0
6. 島津忠恒(薩摩/大隈) 56.0
7. 黒田長政(筑前/福岡) 52.3
8. 加藤清正(肥後/熊本) 52.0
8. 池田輝政(播磨/姫路) 52.0
8. 松平忠吉(尾張/清洲) 52.0
11. 小早川秀秋(備前/岡山)51.0
12. 福島正則(安芸/広島) 49.8
【減封】
毛利輝元(周防/長門) 36.9
上杉景勝(出羽/米沢) 30.0
佐竹義宣(出羽/秋田) 20.0 ※元(常陸/水戸)は54.5であったが、上杉討伐に応えず、減封 これは家康は何故かつての敵をむやみに頃さなかったのかて事じゃないの >>144
ごめんなさい。輝元が2代目だと思ってた >>60
秀家が島に流されてから数年後、幕府から様子を見て来いと言われた監査役が島を訪ねた
監査役と言っても表向きは使者であり、江戸から僅かながらの珍味や酒などを携え簡素ながら港近くの屋敷に秀家を招いて祝宴を開いた
宴もたけなわの頃、秀家が御膳に出された飯を手ぬぐいに入れて持ち帰ろうとしている。驚いた監査役が事情を聴くと
「この様な宴は実に久しぶりだが、家で待つ妻や子供たちは腹を空かせて待って居る。私だけ満足しては不憫なので、せめてこの握り飯だけでも食べさせてやりたい。」
これを聞いた監査役は涙を流し「世なれば大納言の御身がこの様な有様とは、なんとも非情なる事よ。」と
持って来た自分達の物資などを持てる限り持たせて帰らせ
幕府には宇喜多の窮状を伝え、援助を願ったと言う 前田や島津から助命嘆願されたら顔も立てないといけないしな
助命嘆願しても許されなかった駒姫かわいそう A級戦犯を罪の重さだと勘違いしてるやつがいるみたいだな
S級とか書いてるやつとか >>141
詳しくは知らないけど関ケ原前は内部分裂してたんじゃなかったっけ宇喜多家 >>158
宇喜多騒動ね
仲裁したのが家康と
大谷刑部 >>155
許されたけど使者が間に合わなかったんだよね 秀家の従者に本多佐渡守の次男坊がいたんだろ?
で、その次男坊は後に直江山城の娘と婚姻
その後は結婚解消して前田加賀百万石に仕えるんだよ
全ては佐渡守のさじ加減 >>155
助命嘆願が間に合って入れば最上の態度も違ってたかもな >>37
出来なかったというのが正しい。
ジャングルの奥地に分け入って首狩り族と戦うようなもんだから。
外征軍を退けるのはできても本拠地を落とそうとしたらとんでもない被害が出る。 関ヶ原の鶴翼中央の本陣は普通に宇喜多だろ
マイナーってどういう事だよ 諸説あり
・小早川秀秋は裏切り者では無かった
・主戦場は関ヶ原ではない
・西軍の首謀者は石田三成では無い 豊臣家の為に頑張りすぎて、領地の年貢を上げ過ぎて家臣が離れてたんだよな。
関ヶ原の時は兵の数をを集めただけ。 >>89
花房家は昭和の時代までは金と土地を沢山持ってたらしいね。今は遺産相続等で土地もバラバラらしいけど >>158
直家の家臣派と秀家の家臣派で分裂した
まあこの手の騒動は何も宇喜多家だけじゃないしね
大身の大名は大抵この手の問題にぶち当たっている 一周回ってやっぱ三成が一番悪いわ
大谷に「お前、すぐ調子に乗るから黙ってろ。毛利が大将なんだからそれに任せろ」
を素直に聞けばよかったんだよ >>85
けどまあ
兄は私に対して本当に優しかった
とは前置きで言ってるから
慕ってはいたんだろうよ
ただ必要であったとはいえ
娘婿を謀事で葬ったり時には身内をも
駒にすることを厭わない辺り
それを最側近として見てきただけに
どうしても信じられなかったんだろうね 信長は別として戦国だからといってそう無闇に殺したりはしないよな。 直家は祖父の仇敵を謀殺したまでは良かったが
助けてくれた主君も娘の婿まで殺すからな
娘婿に到っては突然攻め込んで重臣を寝返らせ謀殺
コレを知った直家の娘は自害
寝返った重臣は折を見て毒殺
もうゴルゴも真っ青な暗殺マシーンだからな イケメンでお人好しだから
「見逃してやるから やらせろ」
「もう アッーーー」 >>178
信長だって理由もなく無闇に殺したりしない >>8
一門で最も奮闘した秀家の所領を、同じく一門で裏切り者筆頭の秀秋に褒美として与えた家康は大変寛大な御仁ですね 身柄を匿ってた島津家と親戚筋の前田家が庇ったのと、すでに剃髪してたからだよ
数年過ぎて前田家が所領から10万石出すので大名として復活させてはどうか?って打診する位だから前田家の本気が見てとれる
また、宇喜多はそれを断って最早無用な八丈島蟄居を継続したので、幕府もおいそれと手が出せなかった。 家康は気に入らなかった相手は暗殺とかしてるよねどう考えてもさ
関ヶ原裏切り組のその後
小早川秀秋 2年後急死 お家断絶
脇坂安治 賤ヶ岳の七本槍の一人、加増され大出世
朽木元綱 大幅に所領を減らされ飼い殺し
割と名家かつ朝廷とつながりあるので所領全没収は免れた模様
子の一人が家光にゴマをすりで別家を立て出世
赤座直保 所領全没収、朝倉家出身ゆえ前田家家臣になるも6年後事故で水死
小川祐忠 裏切りの前約束をしていたのにも関わらず反故にされ所領全没収、2年後急死 秀吉が死んだ直後にお家騒動を、ていうか合戦を豊臣のお膝元の大阪で起こして豊臣家の脆さを世に見せたのは宇喜多家
だけど一番豊臣に殉じた外様も宇喜多家と言えるんじゃないかな 八丈島に島流しってwwww >>1
石田や小西は戦いの最中に捕らえられたから
石田三成が処刑された時点では、まだ日本全国で戦闘が継続していた >>188
実は宇喜多軍の一部は東軍として参戦していた
宇喜多秀家は会津の上杉征伐に先陣の部隊を出していた
その軍勢はそのまま東軍に加わり黒田長政の指揮下にあった >>149
数ある歴史的肖像画の中で一番キラキラしてるよな
>>176
身内で一番被害を受けたのは娘たちだよな
政略結婚とはいえ突然、夫が毒殺されたり攻め殺されたりはつらいわな >>79
秀吉は余裕でやったけど、家康はドケチだからな >>193
丹羽長重も返り咲きだけど
あんまり言われない >>21
たまたま島津義弘が上洛したときに巻き込まれたので200人しか参加できてない
だから本国では無傷の軍団が残ってた >>202
二百は生存者では
だいたい島津は朝鮮征伐から半分しか帰ってこなかった
だから疲弊しており、関ヶ原戦役の頃も軍役負担を軽くしてもらえた >>141
宇喜多直家の梟雄伝説も宇喜多氏の旧領に移封された大名が領内掌握の為に
誇張した話に過ぎないとも言われてるけどね
そもそも戦国時代に小勢力が生き残りのために寝返り繰り返すのは当たり前のことに過ぎんし >>203
元々上洛してたのが200人ぐらいで上方で急募して1000人ぐらいの軍勢は集めたらしいけど
それらは戦いが始まるとすぐに逃散した模様 宇喜多の主君筋だった浦上氏も赤松氏からの下克上で勢力大きくしたし当時の岡山当たりじゃ主君を裏切るのが当たり前な風潮があったんだろうな >>46
大阪城落城時に千姫保護して、
さらに次の嫁ぎ先探してくれ
って言われてウッキウキで相手
探してきたら、あれ嘘って言われたら
誰だってぶちギレるでしょ。 >>206
岡山に限らず戦国時代はそういうもんだろ 三成じゃなくて秀家が実質的総大将なのに教科書とかでは「石田三成ら西軍は〜」ってかかれるよね 前号の歴史群像の特集記事によると
関ヶ原合戦は実際の兵数はもっと少なくてもしかも西軍が一方的に負けたらしい
島津の敵中突破は事実 ・小西・恵瓊・福原・太田らのように石田シンパというわけではない(秀吉マンセーだっただけ)
・処断すると前田家、島津家あたりがうるさい 島津のすてがまり戦法で後から遅れて薩摩に戻って北人もいるけど、よく戻ってこれたよね 新幹線とかないんやで
途中で落ち武者狩りとか合わなかったのだろうか? >>217
途中で押し込み強盗を繰り返しなから帰ったらしい うちの祖先は関が原じゃないとこで奮戦してて
西軍惨敗の知らせが来た後も城を奪い取って篭城して立てこもってた
それでも領地ボッシュートされるだけで済んで殺される事は無かった
最終的には元家臣の助命嘆願でその家臣の下で高禄貰ってぬくぬくと生活できてたみたいだから
当時から人付き合いは重要だったんだと思う >>66
上杉は改易でもおかしくなかったのに、米沢とは目と鼻の先にある勝者の最上が先に改易されると言うw >>220
毛利も改易でおかしくなかったのに、関ヶ原最大の功労者福島正則の方がさきに改易されるという >>212
首謀者、発起人も秀家だぞ、秀家は三成じゃなくてが動き出すより早くに豊国社で戦勝祈願を行っている
それに小西と安国寺恵瓊(毛利)が乗って、後から謹慎中だった三成が加わっただけ >>215
七将襲撃事件のとき三成を佐竹義宣と共に救っているよ
普通に秀家は三成シンパ でも布陣は三成が中央の山にいて
あきらかに総大将だよな
宇喜田は先鋒・・・・・ >>214
その説はロマンが無くて面白くないから却下 鬼島津200人!?
島津が動かないのも当然か・・・やれやれ 敵中突破って言っても
黒田隊の裏を通って、詰問にでてきた井伊直政をいきなり銃撃して落馬させ
混乱する井伊隊を突破したら激おこの徳川旗本に追っかけられて
家老も一門もみんな囮にして逃げただけじゃん 片付けられたのは、秀吉に取り立てられた成り上がり者だけ
地侍上がりで秀吉近臣になった石田
毛利の外交僧から秀吉近臣になった安国寺
商人上がりで秀吉に取り立てられた小西
反感買っててかばう者も少ない、もってこいのスケープゴート >>214
勝ち馬に乗っただけかよ
小早川の家にますます泥が… >>218
怖… 落ち武者狩りが狩られてそうだわ
でも、戦国時代末期の旅ってどんな感じなんだろう
関所とかあるのかな? 落ち武者には見えないんじゃないかw ずたぼろすぎて >>233
治安が悪いから自国領内しか動けないし、それでも山賊や海賊、近隣の村とも折り合いが悪いと敵だらけだから
滅多な事では遠出しないし出来ない
旅行出来たのは大名や上級武士、芸人や商人とかごく一部 タイムマシンが出来たら戦国時代にタイムスリップして合戦の模様をドローンで撮影してきて欲しい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています