【音楽】 昭和芸能史の秘話 ヒット曲「赤色エレジー」作曲者名義が発売直前で変更された理由 当事者に聞く [朝一から閉店までφ★]
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2022.11.24(Thu)
北村 泰介
日本のフォーク/ロック黎明期の1972年に設立され、後世に多大な影響を残した伝説のレーベル「ベルウッド・レコード」の50周年記念コンサートが今月、東京・中野サンプラザホールで開催された。
レーベルの第1弾シングルとなった、あがた森魚(74)の「赤色エレジー」も同公演で披露されたが、この曲には作曲者名義が発売直前で変わったという昭和芸能史の裏話があった。
あがた本人と、同レーベルを立ち上げたプロデューサーの三浦光紀氏(78)という2人の当事者が、よろず~ニュースの取材に対し、半世紀前に起きた舞台裏を振り返った。
「赤色エレジー」が72年にキングレコード内で発足した同レーベルから発売される3か月前、関係者に配られた見本盤(通称・白盤)のレーベル面には「あがた森魚作詞・作曲」とクレジットされていたが、
発売時には「あがた森魚作詞・編曲/八洲秀章作曲」となっていた。あがたは「見本盤は1月で、作曲が八洲(やしま)さん名義になったのは4月でした」と明かす。この間に何が起きたのか。
今秋出版された、あがたとライター・今村守之氏との共著となる自伝本「愛は愛とて何になる」(小学館)によると、作曲家・八洲氏の作品「あざみの歌」(1949年発表)にメロディーが似ているとした会社側の判断があったという。
あがたのデビュー直前、作曲者を八洲氏とする判断を下したのは当時のディレクター・長田(おさだ)暁二氏。直属の部下だった三浦氏が真相を代弁した。
「長田さんは僕の上司で、倍賞千恵子さんの『あざみの歌』を担当しています。大変お世話になった人です。長田さんは八洲さん、あがたさん双方を知っているから、『自分でもはっきり分からない。
ただ、裁判になったら時間が掛かるよ。そうなるとレコードが発売できないから、ここで泣いてくれ』と言われて、(あがた担当だった)僕も泣いたんです。
タイミングってあるじゃないですか。僕も長田さんもどっちかというと、あがたさんに味方したいんだけど、そうはいっても世の中には決まり事もありますから」
生まれたばかりの新レーベルからの第1弾シングル。まずはレコードを出さなければ何も始まらない。三浦氏とあがたは苦渋の思いで作曲者変更に同意し、その後、60万枚を売り上げる大ヒットにつながる。
三浦氏は「1年後、2年後に発売していたら、あれだけの反響があったかどうか…。やはり、あのタイミングしかなかったと思います」と指摘する。
https://yorozoonews.jp/article/14774712 「あざみの歌」って沢田亜矢子のデビュー曲か?純アリスも歌ってたけど 元「パイレーツ」、2人の現在に驚き「超絶美人」「さらに可愛くなった」40代にはまったく見えない…スタイル抜群の水着姿も
https://huyui.batyuchok.com/bu/bqfi/a73baa.html ■1972年8月21日付オリコン週間シングルランキング
1← 旅の宿 よしだたくろう
2← さよならをするために ビリー・バンバン
3↑ どうにもとまらない/青い月夜は 山本リンダ
4↓ ゴッドファーザーの愛のテーマ アンディ・ウィリアムス
5← 芽ばえ 麻丘めぐみ
6← ひまわりの小径 チェリッシュ
7↑ 赤色エレジー あがた森魚
8↓ ひとりじゃないの 天地真理
9↓ あなただけでいい 沢田研二
10↑ 京のにわか雨 小柳ルミ子
11↑ こころの炎燃やしただけで/ゴッドファーザー ~愛のテーマ 尾崎紀世彦
12↓ 鉄橋をわたると涙がはじまる 石橋正次
13↓ 純潔 南沙織
14↑ せんせい 森昌子
15↓ 夏のふれあい フォーリーブス
16↑ ゴッドファーザー 愛のテーマ ニーノ・ロータ
17↓ 待っている女 五木ひろし
18← 別れの旅 藤圭子
19↓ ふりむかないで ハニー・ナイツ
20↓ 夏の夜のサンバ 和田アキ子 「1年後、2年後に発売したら、あれだけの反響があったかどうか・・・」
2年後の発売された、さくらと一郎の昭和枯れすすきが大ヒットしてるではないか 父があざみの歌を好きだった
死ぬ間際のほぼ意識無い時に耳元で聴かせたら、開きっぱの目にうっすら涙が滲み出してきたのを覚えてる だけど、あがたはこの曲のイメージが強くなりすぎて
良かったのか悪かったのかってところだな さすがに赤色エレジーの頃のあがたは世代じゃなかったけど柳沢慎吾 辻沢杏子の翔んだライバルの主題歌だったか挿入歌だったpopなあがたが赤色エレジーとは対照的で好きだった記憶がある 英語 I gatta〜から芸名をつけたと思ってパワフルな人を想像したらだいぶ枯れていた グッバイ マイフレンド アデュー アンド アイラブユー 黒色エレジーってバンドいたなあ
トランス系だったか >>30
ヴァージンVSのA児とあがた森魚がどうしても繋がらなくてプチパニクッた若い頃 >>1
確認とか許可とってあがた森魚名で出せよ。忖度以外の何物でもない あがた森魚って天才だよな
この世代のフォーク的な歌手の中では異質な才能 >>25
競作が多いのが昭和時代
浪花節だよ人生は 氷雨 男と女のラブゲーム >>21
さくらと一郎「昭和枯れすゝき」(貧しさに負けた いいえ世間に負けた)
天地茂「昭和ブルース」(生まれた時が悪いのか それとも俺が悪いのか)
が共にオイルショック後の1974年だから、それらの中に埋もれてしまったってことじゃないかな。
何れも高度経済成長が終わり、繁栄に翳りが出てきた時代の産物だけど、1972年にはまだ世相を先取りしていた感がある。
そう思うと岡林信康の「チューリップのアップリケ」(みんな貧乏が悪いんや)が1971年と云うのははすごいわ。 洋楽のパクリは普通にやるけど
国内どうしのパクリはあかんのね
Bzとか有名じゃん。 >>44
矢野顕子のデビューアルバムのタイトルがJapanese girlなのはあがた森魚の日本少年のレコーディングに参加して衝撃を受けたかららしい
あがたをリスペクトしてるミュージシャンは多いみたいだよ >>52
ヂパングボーイ大好きだわ
函館ハーバーセンチメントの孤独感は聴くたび切ない >>44
独特の世界観というか色彩を持っていて好きだな
日本少年持っていたが引っ越しを繰り返すうちに行方不明になったことが残念 よくわからんが「八洲が『あがたが俺の歌パクった』言ってるけどあがたは認めない。担当もあがたに肩入れしてたが裁判は嫌だから泣く泣く八洲の言い分を飲んだ」てことでOK? >>46
高度経済成長期と言っても1975年まで地方からの中卒の集団就職があった時代
その頃に大学に通えたあがた森魚や岡林や拓郎は紛れもない当時のボンボン >>57
田舎の個人商店の子供が大学通えた時代
ボンボンだとは限らない あがた森魚のバイト先にいたパートのおばちゃんが
鈴木慶一の母親でその縁で2人が知り合ったんだとか
すごい巡り合わせ >>57
そもそも貧乏人はレコード再生できないし
ギターすら買えない時代です >>61
個人商店って街の八百屋や魚屋レベルの話
ボンボンではないわ 個人商店のガキは庶民の中では金持ちのボンボン
それを理解できないバカがいるw >>65
お前の言う庶民ってどのレベル?
職業とか何やってんの? この件は昔、中村とうようさんの「ニューミュージック・マガジン」でも議論になっていた
「あざみの歌」を聞けばわかるが、第一連のキャッチャーなメロディーを若干アレンジして
リフレインしているだけなのが「赤色エレジー」
ところがあがたは、赤色は完全な自分のオリジナルと主張して譲らない
そんな主張って認めるべきなの? という議論だったと思うが、大方の見方は「原曲が有名で
非常に流布していたから、無意識のうちにそれをなぞっていたんだろう」といいことだったかな
もういい歳なんだから、その辺はきっぱり認めて死んでいけばいいのにと思うがな
さもないと閻魔様に舌抜かれるぞw >>7
それはあがたが赤色エレジーの後に落ちぶれてから? 確かあがたは落ちぶれて旅館で布団の上げ下ろしやってたんだよな 作曲能力は乏しいけれどアイデアはいい
ファーストアルバムからトータルアルバムなのは凄いし
行き詰まったらタンゴをやり出したのも良かった ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています