宮沢りえ伝説「ヌードでもどうですか」「連休明けかしらね」母の溺愛と叱責…155万部『サンタフェ』秘話 から続く

誰が見ても幸福な風景から…破談会見の真相
 街中でデートをして間もなく、貴乃花は、「結婚して欲しい」と切り出し、りえは受け入れる。

「大人ばかりに囲まれ育ったりえさんは、自分と同世代の貴乃花に惹かれていった。住む世界は違うけれど境遇は似ていました。ふたりとも中学を出て特殊な世界に入り、10代で日本を代表するスターになった。常に注目され、大人たちの期待を背負っていたところも一緒でした」(音楽プロデューサーの酒井政利)

 平成4(1992)年10月26日夜10時、久米宏の「ニュースステーション」(テレビ朝日)の冒頭で、いきなりふたりの婚約が報じられた。貴乃花が所属する藤島部屋が、懇意にしていたテレビ朝日に特ダネとして情報を流したからだ。日本中に激震が走り大騒ぎになった。雑誌は急遽臨時増刊号が出され、テレビは連日この話題を追い、海外メディアでも報じられた。

 1カ月後の11月27日、ふたりはともにピンク色のキモノに身を包み、手をつないで記者会見に臨んだ。誰が見ても幸福な風景だった。だがこの頃、すでに周囲では波風が立ち始めていた。角界の周辺が、宮沢りえとの結婚を危ぶんだからだ。

 一方、酒井は光子の心が麻のように乱れるのを目にしていた。

「さみしかったんでしょう。りえさんは幸せそのもの。愛する人に夢中で自分の声が届かない娘を見るのが光子さんは辛い。恋人と長電話をするりえさんに激高することもあれば、気弱さを見せることもあった。りえさんも、そんなママを見ると不安になり、さびしくなる」

 貴乃花の背後には、両親、部屋、後援会、角界が確固としてあった。それは日本の男社会そのもので、光子の価値観とは相容れない。「宮沢りえ」を低く位置づけ、嫁に来たければ仕事を辞めろ、女将さんになる覚悟はあるのか、と迫ってくる。そうした態度が許せない。光子に対する悪意に満ちた報道が続き、無軌道な母が結婚の障壁とまで書かれた。

 婚約は2カ月後に、解消される。

 翌年、初場所を終えて大関への昇進が決まった1月27日午後、りえと貴乃花は久しぶりに会い、破談を確認する。夕方6時、先に記者会見を開いたのはりえだった。宮沢家と親しかった、スポーツ紙の元記者、神戸陽三が明かす。

「記者会見場をセットしたのは私です。あの時は光子さんも焦っていました。6時からの全国ニュースで中継されることを意識して、貴乃花側より前に記者会見をやったほうがいい、と進言した。『最高のオシャレをしてきてください。泣かないで、しっかりと自分の言葉で話をした方がいい』と、りえさんには光子さんの関係者を通してアドバイスをしました」

3/28(日) 11:12
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20210328-00044151-bunshun-ent